2回の留学と幾度の苦難を超えてなお燃え続ける航空宇宙分野への情熱

田尻 和也さん

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基本情報

名前:田尻 和也

所属(現):Michigan Technological University

最終学位:Ph.D

性別:男

出身地:熊本

経歴

東京大学工学部航空宇宙工学科卒業

計測器メーカ勤務後、退職

1999-2001 Georgia Institute of Technology, School of Aerospace Engineering 修士課程

日産自動車総合研究所勤務後(2年半)、退職

2005-2008 The Pennsylvania State University, Department of Mechanical Engineering 博士課程

2008-2010 Argonne National Laboratory ポスドク

2010-2017 Michigan Technological University, Department of Mechanical Engineering-Engineering Mechanics にて Assistant Professor

2017-現在 Michigan Technological University, Department of Mechanical Engineering-Engineering Mechanics にて Associate Professor

 

インタビュー

退職からのジョージア工科大学修士課程への留学

会社を辞めて留学に至った経緯 -航空宇宙分野での留学の夢を諦めきれなかったー

田尻先生は、会社を辞めてからの学位留学を修士と博士で二度、別の大学でしていらっしゃいます。最初は、日本の学部卒業後、日本の計測メーカーに就職した後に、ジョージア工科大学の修士課程へ入学しています。仕事を辞めてまで留学に至った動機を教えていただけますか?

留学を考えた最初の理由は、航空宇宙の分野だとアメリカが強いことにあります。大学入学時点でぼんやりと留学したいという気持ちはありました。 その頃から情報は集めていたのですが、学部時代は学校に行かずにバイトばかりやっていまして(笑)。卒業が遅れたんですよ。結果、新卒として就職活動ができませんでした。当時の指導教官の紹介で、小さい計測器メーカーに入りました。
就職後も留学は頭の片隅にはありました。留学により自分のキャリアアップにつながるかなと、一縷の望みという思いはありました。

 

留学への準備をし始めるきっかけはありましたか?

実際に留学しようと決めたのは、出張で渡米した時に、カリフォルニア工科大学へ寄ったことがきっかけです。その時、Graduate student のパンフレットをもらいました。こういう授業があるのか、面白そうだなと、頑張ってみようかなと留学への思いが再熱したのを覚えています。

それから2年くらいで留学準備をして修士の学位留学へ至りました。

 

学校選択の基準 ー自費留学が可能な公立校へー

留学先の学校選択には何を参考にしましたか?

アルクが載せていた大学院の航空宇宙分野のランキングを参考にしました。当時は全部自費だったので、授業料の高い私立を除いて、公立の大学院を上から順番に三つ四つくらい選んで受験をしました。

一応、そのランキングで一位だったカリフォルニア工科大学も、私立でしたが受験しました。そこは落ちてしまったのですが、公立で第一志望だったジョージア工科大学は合格することができました。

 

留学準備での苦労 ー推薦状と自費留学のためのお金の工面ー

留学準備で大変だったことはなんでしたか?

一番大変だったのは推薦状3通を集めることでした。日本の大学から推薦状を書いてもらえるのは指導教員からのみでした。あとの2通は会社の上司や仕事で知り合った人に書いてもらいました。推薦状は自分のことをよく知っている人に書いてもらえ、とはよく言われていますが、私の場合はあまりそうではなかったですね。

 

また、修士課程は自費だったので、そのお金の工面に苦労しました。私は結局留学1年分の金額しか用意できませんでした。ですので、普通は2年で修士を終了するところを、1年で終えるか、1年で実力を教授に認めてもらって、研究室でRA (Research Assistant)として給料をもらいながら研究・勉強しようというつもりでした。

 

大学院生活 -通常の半分の期間での卒業要件の終了とRAでの1年間-

留学1年分の準備金で通常2年間の修士課程に入学して、ジョージア工科大学での留学生活はどうでしたか?

非常に忙しかったです。1年間で終わるよう授業を履修し、研究もこなしました。毎日深夜1時くらいまで研究室にいて、翌日朝9時の授業に出るような生活です。この時に頑張れて、これだけできるんだ、と自分のキャパシティを確認できたのが、それからの自分の自信にもつながっています。

 

私は1年目は英会話がうまくできなかったのもあり、それをハードワークで補うよう努力しました。理系なので数式を見せればコミュニケーションはとれたのです。そして、春学期くらいに(アメリカの大学は秋から始まります)いい研究結果が出てきました。それもあって、翌年度の秋からRAとしてもう1年残るか、と教授に言ってもらえました。その時点で卒業することはできましたが、RAとしてお金をもらいながら研究できるといことで、もう1年残ることにしました。この後も博士課程に残るつもりだったのですが、一難ありまして、、、これが次の博士課程での留学につながっていきます。

 

大変気になりますね(笑)その話は次の博士再挑戦編でのインタビューで話していただきます。それに移る前に、ジョージア大学での留学中にやってよかったことや得られたことを教えていただけますか?

勉強と研究に没頭する時間がもてたことです。これは本来、学部の時にあるべきだったと思うのですが、私の場合はありませんでした。

留学したから得られたことは、いろんなエリアの知り合いができたことです。今、大学の教授として研究予算を獲得するために色んな会社の人と話したり交渉したりすることがあります。その時に知り合いがいると、話題として最初のアイスブレイクになります。

 

留学による変化 -キャリアアップと積極性-

ジョージア工科大学の修士課程の留学の結果、キャリアはどう変わりました?

留学の前後で、零細企業から大企業(日産自動車総合研究所)に変わりました。留学前と比べて、同い年の人と同じくらいの年収には上がりました。日本の企業は、年齢でポジションや給料を決めるので、中途採用枠として年齢相当のポジションと給料になったのだと思います。

 

留学を通して得られたことを教えていただけますか?

授業とかセミナーを聴講しているとき、躊躇せずに自然と質問をできるようになりました。アメリカは授業中も学生がかなり質問をします。その環境にいたからこそ、基本的なことでも質問できるようになりました。これは様々な場面でポジティブに働いてると思います。相手や上司からの印象もよくなると思います。

実際、自分が大学で授業を教えていて、基本的な質問をしてくる学生も多くいます。そういう風に質問してくれるのは教える側もかなり助かるんです。一人が聞くということはほかの人もわからないということなので、学生の授業の理解度を測る指標にもなります。

 

アメリ修士終了後の就職から博士課程への再挑戦

帰国後に博士課程への留学の動機 -個人の実力で勝負できる場所への再挑戦ー

日産への就職後、2年半で仕事を辞めてペンシルバニア州立大学の博士課程へ入学されています。この2回目の留学のきっかけを教えていただけますか?

留学後、日産で働いて気づいたことがありました。企業で働いている人って、個人の名前よりも会社の名前が見られることが多いのです。研究者としての個人個人の顔が見えることは多くはありません。また、他の会社の人とやり取りをする時に、相手が下手にでるのは私をみているのではなく、会社の名前をみているという実感がありました。私はそれが嫌に思えたのです。 自分の名前と実力で勝負できる世界にいきたいと強く感じました。

 

そして実は、ジョージア工科大学でRAをしていた当時、博士課程の進学への話がでていました。ここで一難あったのです。修士課程から博士課程へ進学するときに、Qualify examという試験があります。ジョージア工科大学の場合は、授業に関して教授と2対1で行われる口頭試験が3科目分ありました。当時は。内容より何より英語で苦戦してしまい、結局不合格でした。その時にまたアメリカに戻って再挑戦してやる、という気持ちが残っていたのも博士課程進学へ繋がっています。

 

再挑戦の博士留学の大学選び -共同研究先の先生とのコネクションー

再挑戦としての博士留学の大学はどのように選びましたか?

日産で働いているときに、私が燃料電池に関する共同研究をペンシルバニア州立大学と始めていました。そこの先生に博士課程の学生としてRA付きで受け入れてもらいました。

なので、日産との共同研究のプロジェクトを自分が行う形で、その研究室に燃料電池の知識やノウハウを持ち込んだことも多かったと思います。

 

企業派遣という形は取らなかったのですね。

企業派遣の場合は会社へ戻らなければいけません。企業へ戻るつもりはなかったので、会社を辞めて博士課程への進学という道を選びました。

 

2年半で日産を辞めていますが一悶着とかありませんでしたか?

上司はすごい理解ある人でした。就職して、2, 3ヶ月くらいの割と早い段階で、上司には留学したいという気持ちを打ち明けていました。上司もそんなに反対する雰囲気ではありませんでしたね。推薦状も書いてくださいました。

そのときはジョージア工科大学の先生からも推薦状もらえましたし、一度留学していたこともああって留学準備には余裕が持てました。

 

家族の説得をする必要はありましたか?

親は私のキャリアについてあまり口出ししませんでした。ジョージア工科大学で知り合った日本人の方と結婚していたのですが、妻はジョージア工科大学で修士終了後、アーカンソー大学でスタッフの仕事をしていました。そこで、私が博士課程に受験するときに、同じ大学の博士課程に財政支援付きで合格したらそこに行こうという話をしていました。二人とも同じ大学へというのは難しかったと思いますが、見事に二人でペンシルバニア州立大学からの合格をもらい進学しました。

 

2度目の大学院生活 -3年半での博士課程終了-

ジョージア工科大学での修士課程から考えて2度目のペンシルバニア州立大学博士課程での生活について教えていただけますか?

ジョージア工科大学修士課程での経験と日産で学んだ技術がうまく組み合わさったことで順調に進み、3年半で博士課程を修了することができました。これは、アメリカの博士課程で最初2年間修士の学生と一緒に授業を履修し、残りの3年間で研究をするのと一緒だと思います。最初の2年間は学びながらアメリカの環境に適応して、後3年間は研究をする。 私の場合は、内容を理解する2年間とアメリカの環境を経験する2年間が二つの場所であっただけでした。

余裕があったおかげで、休みの日は遊びに行くこともできましたし、博士課程の最後1年間は子供もいました。普通に朝行って夕方帰ってくるという生活をしていました。

 

留学中やっていてよかったこと ー次のキャリアを見据えたネットワーク形成ー

博士課程での留学中に、将来を見据えてやっていたことを教えていただけますか?

私は博士課程入学時から、アメリカの大学で教授になるつもりでいました。出願時に提出したStatement of Purpose (志願理由書)にもそう書いた記憶があります。そのために、学会で同じ分野の知り合いを増やすよう行動していました。また、所属していた研究室が、日本の企業と共同研究を多くしていました。日本の人が研究室に来た時に、色々と案内や手伝いは積極的にしていました。ファカルティメンバーになったときに、 そのコネを使ってプロジェクトをもらおうと思っていたのです。その時から明確に意思はありました。

 

博士留学で変わったこと ーアメリカの国立研究所への就職ー

博士留学後のための仕事探しについて教えていただけますか?

教授のポジションへ応募していましたが、卒業の2,3か月前に全て落ちてしまいました。落ち込みましたが、仕方ないと思いポスドクの応募もし始めました。いくつかの大学からオファーをもらうことができましたが、第一志望であったアメリカの国立研究所であるArgonne National Laboratoryの結果が出るまで全て保留にしていました。正式にArgonne National Laboratoryからオファーをもらえたのは、博士論文の研究発表を終えた2か月後の8月くらいでした。それからいろんな手続きを2ヶ月くらいで終えて、実際に働き始めたのたのは11月からでした。

 

Argonne National Laboratoryへの応募からオファーについて教えていただけますか?

普通に公募が出ていまして、それに関して、私の指導教官にいい人がいたら紹介してくれという連絡が直接来ていました。それについて、研究室のみんなに回したメールを見て、応募しました。情報を知ったのは指導教官からですが、応募は普通に公募に対しました。On-site interviewはなく、Phone-interviewが最終面接でした。

 

Argonne National Laboratoryへ行くことにした理由を教えていただけますか?

国立研究所は名声もあるし、給料もいいからです。大学でのポスドクの2倍くらいの給料はありますし、箔がつきます。研究環境も素晴らしいです。

実際、今の教授のポジションでの選考でも国立研究所にいたというのは結構プラスになったと思います。今、採用する側にいるからわかるのですが、その視点から見て、国立研究所での経験は目を引きます。もう一点はネットワークです。国立研究所から来ると、国立研究所の人との知り合いが多くいるので、国立研究所と共同研究し予算を獲得できるという期待があります。

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2つの留学を通して得られたことと、これから

2つの留学を通して得られたこと ー指導方法は教えてもらうものではなく見るものー

田尻先生は修士と博士を別々の場所で修了しました。5、6年間同じ大学で博士課程で学ぶことと比較してよかったことがあれば教えていただけますか?

修士と博士を別のとこで終えるのは面白いと思います。別の場所で違った研究のやり方を見て経験できます。特に将来、教授職に就きたいなら、色んな指導の方法を見ることは重要だと思います。そういう視点は教授として必要だと思います。

 

教授になった時・TA(Teaching Assistant)をやる時に、どういう風に授業をやるかというのは教えてくれます。 PhD やポスドクでどういう風に研究をするかというのも教えてくれます。ただ、どうやって研究指導をするかというのは誰も教えてくれません。それについて教えらえる経験がないままにAssitatnt Professorになって学生を指導するわけです。 日本なら、上に教授がいて准教授いるので、指導する方法を助教の時に見れるのですが、アメリカだとそうはいきません。Assistant professorになる前にいろんなやり方を見てくるのは大事だと思います。修士・博士で絶対に場所を移せ、というわけではないのですが、移すことにもメリットはあると思います。

 

将来どうしたいか ー航空宇宙の研究の再開ー

これからの目標・プランについて教えていただけますか?

いま徐々に燃料電池から航空宇宙に関する研究に分野をずらしています。本当は、博士課程の時に航空宇宙の研究をやりたかったのですが、航空宇宙系の分野で財政支援付きで合格をくれたところがありませんでした。その時ある先生に言われたのが、

「大学の教授になれば自分の好きなことができる。 だからそれまで、とりあえず何でもいいからお金をもらえるところで博士を取れ。そして教授になって好きな研究に戻れ」

 

という言葉でした。そこで長期的な視点を持って、燃料電池で博士の学位を取って、燃料電池ポスドクの仕事をして、燃料電池で今の教授のポジションを得て、好きなことができるようになった今、航空宇宙関係の研究を増やしつつあります。将来どうしたいかというのは、もう少し航空宇宙の研究を広げていけたらいいかなと思います。

 

これから留学を目指す人へのアドバイス -興味があればとりあえずやってみようー

アメリカの大学の教授の立場として、留学したい人へアドバイスいただけますか?

アメリカで研究したい学生は、自分でお金を用意して、教授へしっかり研究を理解をしていることを伝えるように連絡すれば、研究できる可能性は低くはないと思います。

私のところによく、留学したいんですというメールが、特にイランから来るのですが、どれだけ優秀でもお金がないときは今お金ないから受け入れられないって返信を書くしかありません。お金を自分で持ってきてくれる学生は、あまり優秀じゃなくても喜んで受け入れます。

 

それは日本人でもですか?

国は問わないです。お金持ってきて、研究をしてくれるのは、こちらにとってはマイナスなことは何もないですから。

 

お金を持ってるか持ってない以外で特に見るところを教えていただけますか?

もちろん成績や論文の実績があれば最低限見ます。あと、大抵の学生は同じ文面のメールを何十、何百の人に送ってると思います。そういうメールは見た瞬間に無視します。ちゃんとその先生の名前を入れて。研究内容の入れて少しでも突っ込んでるようなことを書いてると印象は良くなります。私の研究室のHPでは、Transport phenomenaとかEnergy conversion とか書いているのですが、メールで、Transport phenomena、Energy conversionとそのまま書いてるだけだとHPで見たことを写しただけだと思うので、少し違ったことが書いてあるとちゃんと調べていると思って印象はよくなると思います。

 

そういう研究を理解しているメールは全体の何%くらいですか?

数%かな。 なのでちゃんと書いてたら印象は良くなると思います。

また、自分の指導教官の知り合いの先生にコンタクトするとかだと印象は違うと思います。信頼がありますし、その先生にこの学生はどうなのか?と突っ込んだ話も聞けますから。

 

最後に留学に一歩踏み出せない人へ一言いただけますか?

興味があればやってみたほうがいいです。とりあえず一回飛び込んでみてダメだったらまた挑戦すればいい。年齢は関係ありません。アメリカの大学院にはそういう人は沢山いる。

日本のシステムがダメだったらまたやり直すというのはあんまり認めてないので、躊躇する気持ちは分かります。ですが、長い目で見て、ダメだったらまたやり直せると思って挑戦すれば道は切り開けると思います。

 

編集後記

田尻先生とはアメリカでの学会にて知り合いました。学会先で、私も希望しているアカデミアの道について話してくださり、その話を少しでも多くの人に届けたいという思いで、今回インタビュー記事への協力をお願いしました。紆余曲折の結果、学部時代からやりたかった航空宇宙の研究に取り組める環境を築いた田尻先生。長期的な視点をもって諦めなければ道は切り開けるというのを強く感じさせてくれました。

 

インタビュアー:Kai Narita