2回の留学と幾度の苦難を超えてなお燃え続ける航空宇宙分野への情熱

田尻 和也さん

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基本情報

名前:田尻 和也

所属(現):Michigan Technological University

最終学位:Ph.D

性別:男

出身地:熊本

経歴

東京大学工学部航空宇宙工学科卒業

計測器メーカ勤務後、退職

1999-2001 Georgia Institute of Technology, School of Aerospace Engineering 修士課程

日産自動車総合研究所勤務後(2年半)、退職

2005-2008 The Pennsylvania State University, Department of Mechanical Engineering 博士課程

2008-2010 Argonne National Laboratory ポスドク

2010-2017 Michigan Technological University, Department of Mechanical Engineering-Engineering Mechanics にて Assistant Professor

2017-現在 Michigan Technological University, Department of Mechanical Engineering-Engineering Mechanics にて Associate Professor

 

インタビュー

退職からのジョージア工科大学修士課程への留学

会社を辞めて留学に至った経緯 -航空宇宙分野での留学の夢を諦めきれなかったー

田尻先生は、会社を辞めてからの学位留学を修士と博士で二度、別の大学でしていらっしゃいます。最初は、日本の学部卒業後、日本の計測メーカーに就職した後に、ジョージア工科大学の修士課程へ入学しています。仕事を辞めてまで留学に至った動機を教えていただけますか?

留学を考えた最初の理由は、航空宇宙の分野だとアメリカが強いことにあります。大学入学時点でぼんやりと留学したいという気持ちはありました。 その頃から情報は集めていたのですが、学部時代は学校に行かずにバイトばかりやっていまして(笑)。卒業が遅れたんですよ。結果、新卒として就職活動ができませんでした。当時の指導教官の紹介で、小さい計測器メーカーに入りました。
就職後も留学は頭の片隅にはありました。留学により自分のキャリアアップにつながるかなと、一縷の望みという思いはありました。

 

留学への準備をし始めるきっかけはありましたか?

実際に留学しようと決めたのは、出張で渡米した時に、カリフォルニア工科大学へ寄ったことがきっかけです。その時、Graduate student のパンフレットをもらいました。こういう授業があるのか、面白そうだなと、頑張ってみようかなと留学への思いが再熱したのを覚えています。

それから2年くらいで留学準備をして修士の学位留学へ至りました。

 

学校選択の基準 ー自費留学が可能な公立校へー

留学先の学校選択には何を参考にしましたか?

アルクが載せていた大学院の航空宇宙分野のランキングを参考にしました。当時は全部自費だったので、授業料の高い私立を除いて、公立の大学院を上から順番に三つ四つくらい選んで受験をしました。

一応、そのランキングで一位だったカリフォルニア工科大学も、私立でしたが受験しました。そこは落ちてしまったのですが、公立で第一志望だったジョージア工科大学は合格することができました。

 

留学準備での苦労 ー推薦状と自費留学のためのお金の工面ー

留学準備で大変だったことはなんでしたか?

一番大変だったのは推薦状3通を集めることでした。日本の大学から推薦状を書いてもらえるのは指導教員からのみでした。あとの2通は会社の上司や仕事で知り合った人に書いてもらいました。推薦状は自分のことをよく知っている人に書いてもらえ、とはよく言われていますが、私の場合はあまりそうではなかったですね。

 

また、修士課程は自費だったので、そのお金の工面に苦労しました。私は結局留学1年分の金額しか用意できませんでした。ですので、普通は2年で修士を終了するところを、1年で終えるか、1年で実力を教授に認めてもらって、研究室でRA (Research Assistant)として給料をもらいながら研究・勉強しようというつもりでした。

 

大学院生活 -通常の半分の期間での卒業要件の終了とRAでの1年間-

留学1年分の準備金で通常2年間の修士課程に入学して、ジョージア工科大学での留学生活はどうでしたか?

非常に忙しかったです。1年間で終わるよう授業を履修し、研究もこなしました。毎日深夜1時くらいまで研究室にいて、翌日朝9時の授業に出るような生活です。この時に頑張れて、これだけできるんだ、と自分のキャパシティを確認できたのが、それからの自分の自信にもつながっています。

 

私は1年目は英会話がうまくできなかったのもあり、それをハードワークで補うよう努力しました。理系なので数式を見せればコミュニケーションはとれたのです。そして、春学期くらいに(アメリカの大学は秋から始まります)いい研究結果が出てきました。それもあって、翌年度の秋からRAとしてもう1年残るか、と教授に言ってもらえました。その時点で卒業することはできましたが、RAとしてお金をもらいながら研究できるといことで、もう1年残ることにしました。この後も博士課程に残るつもりだったのですが、一難ありまして、、、これが次の博士課程での留学につながっていきます。

 

大変気になりますね(笑)その話は次の博士再挑戦編でのインタビューで話していただきます。それに移る前に、ジョージア大学での留学中にやってよかったことや得られたことを教えていただけますか?

勉強と研究に没頭する時間がもてたことです。これは本来、学部の時にあるべきだったと思うのですが、私の場合はありませんでした。

留学したから得られたことは、いろんなエリアの知り合いができたことです。今、大学の教授として研究予算を獲得するために色んな会社の人と話したり交渉したりすることがあります。その時に知り合いがいると、話題として最初のアイスブレイクになります。

 

留学による変化 -キャリアアップと積極性-

ジョージア工科大学の修士課程の留学の結果、キャリアはどう変わりました?

留学の前後で、零細企業から大企業(日産自動車総合研究所)に変わりました。留学前と比べて、同い年の人と同じくらいの年収には上がりました。日本の企業は、年齢でポジションや給料を決めるので、中途採用枠として年齢相当のポジションと給料になったのだと思います。

 

留学を通して得られたことを教えていただけますか?

授業とかセミナーを聴講しているとき、躊躇せずに自然と質問をできるようになりました。アメリカは授業中も学生がかなり質問をします。その環境にいたからこそ、基本的なことでも質問できるようになりました。これは様々な場面でポジティブに働いてると思います。相手や上司からの印象もよくなると思います。

実際、自分が大学で授業を教えていて、基本的な質問をしてくる学生も多くいます。そういう風に質問してくれるのは教える側もかなり助かるんです。一人が聞くということはほかの人もわからないということなので、学生の授業の理解度を測る指標にもなります。

 

アメリ修士終了後の就職から博士課程への再挑戦

帰国後に博士課程への留学の動機 -個人の実力で勝負できる場所への再挑戦ー

日産への就職後、2年半で仕事を辞めてペンシルバニア州立大学の博士課程へ入学されています。この2回目の留学のきっかけを教えていただけますか?

留学後、日産で働いて気づいたことがありました。企業で働いている人って、個人の名前よりも会社の名前が見られることが多いのです。研究者としての個人個人の顔が見えることは多くはありません。また、他の会社の人とやり取りをする時に、相手が下手にでるのは私をみているのではなく、会社の名前をみているという実感がありました。私はそれが嫌に思えたのです。 自分の名前と実力で勝負できる世界にいきたいと強く感じました。

 

そして実は、ジョージア工科大学でRAをしていた当時、博士課程の進学への話がでていました。ここで一難あったのです。修士課程から博士課程へ進学するときに、Qualify examという試験があります。ジョージア工科大学の場合は、授業に関して教授と2対1で行われる口頭試験が3科目分ありました。当時は。内容より何より英語で苦戦してしまい、結局不合格でした。その時にまたアメリカに戻って再挑戦してやる、という気持ちが残っていたのも博士課程進学へ繋がっています。

 

再挑戦の博士留学の大学選び -共同研究先の先生とのコネクションー

再挑戦としての博士留学の大学はどのように選びましたか?

日産で働いているときに、私が燃料電池に関する共同研究をペンシルバニア州立大学と始めていました。そこの先生に博士課程の学生としてRA付きで受け入れてもらいました。

なので、日産との共同研究のプロジェクトを自分が行う形で、その研究室に燃料電池の知識やノウハウを持ち込んだことも多かったと思います。

 

企業派遣という形は取らなかったのですね。

企業派遣の場合は会社へ戻らなければいけません。企業へ戻るつもりはなかったので、会社を辞めて博士課程への進学という道を選びました。

 

2年半で日産を辞めていますが一悶着とかありませんでしたか?

上司はすごい理解ある人でした。就職して、2, 3ヶ月くらいの割と早い段階で、上司には留学したいという気持ちを打ち明けていました。上司もそんなに反対する雰囲気ではありませんでしたね。推薦状も書いてくださいました。

そのときはジョージア工科大学の先生からも推薦状もらえましたし、一度留学していたこともああって留学準備には余裕が持てました。

 

家族の説得をする必要はありましたか?

親は私のキャリアについてあまり口出ししませんでした。ジョージア工科大学で知り合った日本人の方と結婚していたのですが、妻はジョージア工科大学で修士終了後、アーカンソー大学でスタッフの仕事をしていました。そこで、私が博士課程に受験するときに、同じ大学の博士課程に財政支援付きで合格したらそこに行こうという話をしていました。二人とも同じ大学へというのは難しかったと思いますが、見事に二人でペンシルバニア州立大学からの合格をもらい進学しました。

 

2度目の大学院生活 -3年半での博士課程終了-

ジョージア工科大学での修士課程から考えて2度目のペンシルバニア州立大学博士課程での生活について教えていただけますか?

ジョージア工科大学修士課程での経験と日産で学んだ技術がうまく組み合わさったことで順調に進み、3年半で博士課程を修了することができました。これは、アメリカの博士課程で最初2年間修士の学生と一緒に授業を履修し、残りの3年間で研究をするのと一緒だと思います。最初の2年間は学びながらアメリカの環境に適応して、後3年間は研究をする。 私の場合は、内容を理解する2年間とアメリカの環境を経験する2年間が二つの場所であっただけでした。

余裕があったおかげで、休みの日は遊びに行くこともできましたし、博士課程の最後1年間は子供もいました。普通に朝行って夕方帰ってくるという生活をしていました。

 

留学中やっていてよかったこと ー次のキャリアを見据えたネットワーク形成ー

博士課程での留学中に、将来を見据えてやっていたことを教えていただけますか?

私は博士課程入学時から、アメリカの大学で教授になるつもりでいました。出願時に提出したStatement of Purpose (志願理由書)にもそう書いた記憶があります。そのために、学会で同じ分野の知り合いを増やすよう行動していました。また、所属していた研究室が、日本の企業と共同研究を多くしていました。日本の人が研究室に来た時に、色々と案内や手伝いは積極的にしていました。ファカルティメンバーになったときに、 そのコネを使ってプロジェクトをもらおうと思っていたのです。その時から明確に意思はありました。

 

博士留学で変わったこと ーアメリカの国立研究所への就職ー

博士留学後のための仕事探しについて教えていただけますか?

教授のポジションへ応募していましたが、卒業の2,3か月前に全て落ちてしまいました。落ち込みましたが、仕方ないと思いポスドクの応募もし始めました。いくつかの大学からオファーをもらうことができましたが、第一志望であったアメリカの国立研究所であるArgonne National Laboratoryの結果が出るまで全て保留にしていました。正式にArgonne National Laboratoryからオファーをもらえたのは、博士論文の研究発表を終えた2か月後の8月くらいでした。それからいろんな手続きを2ヶ月くらいで終えて、実際に働き始めたのたのは11月からでした。

 

Argonne National Laboratoryへの応募からオファーについて教えていただけますか?

普通に公募が出ていまして、それに関して、私の指導教官にいい人がいたら紹介してくれという連絡が直接来ていました。それについて、研究室のみんなに回したメールを見て、応募しました。情報を知ったのは指導教官からですが、応募は普通に公募に対しました。On-site interviewはなく、Phone-interviewが最終面接でした。

 

Argonne National Laboratoryへ行くことにした理由を教えていただけますか?

国立研究所は名声もあるし、給料もいいからです。大学でのポスドクの2倍くらいの給料はありますし、箔がつきます。研究環境も素晴らしいです。

実際、今の教授のポジションでの選考でも国立研究所にいたというのは結構プラスになったと思います。今、採用する側にいるからわかるのですが、その視点から見て、国立研究所での経験は目を引きます。もう一点はネットワークです。国立研究所から来ると、国立研究所の人との知り合いが多くいるので、国立研究所と共同研究し予算を獲得できるという期待があります。

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2つの留学を通して得られたことと、これから

2つの留学を通して得られたこと ー指導方法は教えてもらうものではなく見るものー

田尻先生は修士と博士を別々の場所で修了しました。5、6年間同じ大学で博士課程で学ぶことと比較してよかったことがあれば教えていただけますか?

修士と博士を別のとこで終えるのは面白いと思います。別の場所で違った研究のやり方を見て経験できます。特に将来、教授職に就きたいなら、色んな指導の方法を見ることは重要だと思います。そういう視点は教授として必要だと思います。

 

教授になった時・TA(Teaching Assistant)をやる時に、どういう風に授業をやるかというのは教えてくれます。 PhD やポスドクでどういう風に研究をするかというのも教えてくれます。ただ、どうやって研究指導をするかというのは誰も教えてくれません。それについて教えらえる経験がないままにAssitatnt Professorになって学生を指導するわけです。 日本なら、上に教授がいて准教授いるので、指導する方法を助教の時に見れるのですが、アメリカだとそうはいきません。Assistant professorになる前にいろんなやり方を見てくるのは大事だと思います。修士・博士で絶対に場所を移せ、というわけではないのですが、移すことにもメリットはあると思います。

 

将来どうしたいか ー航空宇宙の研究の再開ー

これからの目標・プランについて教えていただけますか?

いま徐々に燃料電池から航空宇宙に関する研究に分野をずらしています。本当は、博士課程の時に航空宇宙の研究をやりたかったのですが、航空宇宙系の分野で財政支援付きで合格をくれたところがありませんでした。その時ある先生に言われたのが、

「大学の教授になれば自分の好きなことができる。 だからそれまで、とりあえず何でもいいからお金をもらえるところで博士を取れ。そして教授になって好きな研究に戻れ」

 

という言葉でした。そこで長期的な視点を持って、燃料電池で博士の学位を取って、燃料電池ポスドクの仕事をして、燃料電池で今の教授のポジションを得て、好きなことができるようになった今、航空宇宙関係の研究を増やしつつあります。将来どうしたいかというのは、もう少し航空宇宙の研究を広げていけたらいいかなと思います。

 

これから留学を目指す人へのアドバイス -興味があればとりあえずやってみようー

アメリカの大学の教授の立場として、留学したい人へアドバイスいただけますか?

アメリカで研究したい学生は、自分でお金を用意して、教授へしっかり研究を理解をしていることを伝えるように連絡すれば、研究できる可能性は低くはないと思います。

私のところによく、留学したいんですというメールが、特にイランから来るのですが、どれだけ優秀でもお金がないときは今お金ないから受け入れられないって返信を書くしかありません。お金を自分で持ってきてくれる学生は、あまり優秀じゃなくても喜んで受け入れます。

 

それは日本人でもですか?

国は問わないです。お金持ってきて、研究をしてくれるのは、こちらにとってはマイナスなことは何もないですから。

 

お金を持ってるか持ってない以外で特に見るところを教えていただけますか?

もちろん成績や論文の実績があれば最低限見ます。あと、大抵の学生は同じ文面のメールを何十、何百の人に送ってると思います。そういうメールは見た瞬間に無視します。ちゃんとその先生の名前を入れて。研究内容の入れて少しでも突っ込んでるようなことを書いてると印象は良くなります。私の研究室のHPでは、Transport phenomenaとかEnergy conversion とか書いているのですが、メールで、Transport phenomena、Energy conversionとそのまま書いてるだけだとHPで見たことを写しただけだと思うので、少し違ったことが書いてあるとちゃんと調べていると思って印象はよくなると思います。

 

そういう研究を理解しているメールは全体の何%くらいですか?

数%かな。 なのでちゃんと書いてたら印象は良くなると思います。

また、自分の指導教官の知り合いの先生にコンタクトするとかだと印象は違うと思います。信頼がありますし、その先生にこの学生はどうなのか?と突っ込んだ話も聞けますから。

 

最後に留学に一歩踏み出せない人へ一言いただけますか?

興味があればやってみたほうがいいです。とりあえず一回飛び込んでみてダメだったらまた挑戦すればいい。年齢は関係ありません。アメリカの大学院にはそういう人は沢山いる。

日本のシステムがダメだったらまたやり直すというのはあんまり認めてないので、躊躇する気持ちは分かります。ですが、長い目で見て、ダメだったらまたやり直せると思って挑戦すれば道は切り開けると思います。

 

編集後記

田尻先生とはアメリカでの学会にて知り合いました。学会先で、私も希望しているアカデミアの道について話してくださり、その話を少しでも多くの人に届けたいという思いで、今回インタビュー記事への協力をお願いしました。紆余曲折の結果、学部時代からやりたかった航空宇宙の研究に取り組める環境を築いた田尻先生。長期的な視点をもって諦めなければ道は切り開けるというのを強く感じさせてくれました。

 

インタビュアー:Kai Narita

Youは何しに海外へ。YouはどうしてPathfinders’運営者に。 -前編-

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2019年12月、Pathfinders’を運営するRef.のメンバー全員が東京に集まりました。今は、東京にいるメンバーとLAに残るメンバーが半々くらいなので、みなで東京で集まるのは貴重な機会!(東京で集まるのは初めてなので不思議な気分でした。)

 

ということで、せっかくなので、座談会を開催。

「海外に赴いたきっかけ」と「この活動に参加することを決めた原体験」を1人ずつ話していくことにしました。

今は一緒の方向性を持って活動をしていますが、ここに行き着くバックグラウンドや過程は5人ともばらばら。Pathfinders’を見てくださっている皆さんに、「留学ってこんな小さなきっかけから考え始めるんだ!」とか、「周りに留学を考えている人は少ないけれど、このメンバーは自分と似てる!」など気づいてもらえたら嬉しいなと思い、記事にすることにしました。

もし、もっと私たちの話を聞いてみたいと思ってくださる方がいらっしゃったら、Facebookのメッセージや問合せのリンクからいつでもご連絡ください。

この記事は、前編として、以下の3人のメンバーの話をお伝えしていきます。

・かい  :東京工業大学の学部、修士を終えたのちに、2016年からカリフォルニア工科大学(CALTEC)の材料科学専攻の博士過程に留学。

 ・さとし:2017年11月からカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の進化生態学部にアオリイカの資源生態研究(ポスドク)のため留学し、2019年11月に帰国。

・なつこ:新卒で5年ほど勤めたコンサルティング会社を辞め、2017年から南カリフォルニア大学(USC)公共政策大学院の修士課程に留学し、2019年に卒業。その後現地のITスタートアップで少し働き、2019年9月に帰国。現在は都内監査法人勤務。

 

マレーシアに行って「海外って意外といけるな」と思いました。いろんなプログラムに無料で参加できる良い時期に海外に興味を持ちました。(かい)

かい:僕は今アメリカのカリフォルニア工科大学の博士課程の4年目になりますが、これが初めての長期留学です。もともと自分は21歳まで海外に行ったことがなくて。高校まで青森で過ごして、東京工業大学に入学して初めて東京に来て、それから学部3年生まで海外にも行ったことがありませんでした。この留学に至ったきっかけは、初めての海外経験からでした。学部3年のときに、クラスでグループごとに実験と発表を行い、一番良い発表をしたグループがマレーシアで発表できる機会があり、そこで優勝してマレーシアに行ったのが初めての海外経験です。英語は得意ではなかったけど、マレーシアで発表するために100時間くらい練習をして、発表もなんとかできて自信になり、海外意外といけるな、と思えるようになりました。

 

ちょうどそのころ、2013年〜2014年ごろは日本で「留学プログラムを増やそう」という機運が高まったときでした、様々な留学プログラムがありつつ、まだ応募する人が少なかった。手を挙げれば簡単に留学プログラムに行ける時期でもありました。なので、マレーシアに行ったあと、毎学期ごとくらいの頻度で留学プログラムに参加していました。

 

その1つで、東工大に留学で来ていた韓国人と一緒に、イギリスのケンブリッジ大学へ行く、サイエンスコミュニケーションのプログラムに1週間ほど参加したのですが、その韓国人が修士ケンブリッジに行きたいと言っているのを聞き、驚きました。大学学部で日本に留学したうえ修士は別の国にさらに留学しようとするなんて、なんてフットワークが軽いんだろうと思って。そして、海外で学位を取ることはそんなに気を張らなくてもできるのかもと思えた瞬間でもありました。それまでは、博士を日本で取ろうと思っていましたが、海外で取るのもありかなと考え始め、そこから留学先探して頑張って頑張って…今に至ります。

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ちひろ:高校生の間は、「いつか留学に行くかもな」とか考えたことはあったの?

 

かい:まったく考えていなかったです。大学で東京に行くこと自体が、自分にとっては海外に行くようなものだったから、海外に行くことは頭になかったです。

 

ちひろ:マレーシアに行ったことは意識が海外に向く大きなきっかけになったと思うけど、マレーシアに行ってみてどんなことを思ったの?「海外って面白いな」という感覚?

 

かい:面白いというよりは、意外と自分もいけるなっていう感覚でした。よく「海外留学はすごい」と言われるし、そういうイメージもあるけど、何がすごいのかよくわからないじゃないですか。でも、実際に行ってみたら、「なんだ意外といけるな」と思ったんです。それに、当時の留学プログラムって多くが無料で行けたんですよ。さっき話したケンブリッジのプログラムも渡航費や滞在費も補助されていました。

 

一同:それってすごくない!?そんなのあるの??

 

かい:みんなが応募しないから知らないだけであるんですよ。1週間イギリスに滞在するんですけど、ずっとケンブリッジ大学で授業を受けるのではなく、博物館の学芸員の方の話を聞くなどのフィールドワークもあったりしました。ちょうどそういうプログラムが始まったばかりの時期で、前例もないですしみんなあまり行きたがらなかったんですね。なので、手さえ挙げれば簡単に行くことができる、というちょうど良いタイミングでした。

 

さとし:理系は結構あると思います。学会に行きたいとか、共同研究をしたい、とか一定の目的を持って行く留学プログラムが多いイメージで、それなりにお金も出してくれるんですよ。

 

なつこ:それは研究室とかがお金出してくれるってことなの?

 

かい:いえ、学部です。国が各大学に留学支援のためにお金を出していて、これを使って学部が提供している感じですかね。

 

なつこ:それは文系にはない気がするな。国際法関連とかの分野ならあるかもしれないけど、すごく限られてそう。

 

後輩が自分と同じつらい思いをしないために、何かできないかって考えているときにみなさんに出会いました。(かい)

かい:この活動を始めた原体験は、自分が留学準備をするのがめちゃくちゃ大変だったことにあります。全く情報がないわけではなく、先輩方やウェブの情報は少しあるんですけど、Googleで「留学 理系」で検索するところから始まって、志望理由書はどうやって書くのかな、など1つ1つすべて大変でした。結構つらいことも多かったですが、周りに留学する人も少なく、共有できずに孤独でした。なので、今後後輩が同じように留学したいと思ったときに、同じ気持ちにさせたくないな、何かできることないかなと思っていたときに、みなさんに出会いました。あと、米国大学院学生会など同じ属性の人たちが集まるグループは結構あったりするんですけど、ここのメンバーは異業種の社会人でバックグラウンドが違う人たちが集まっているので、アプローチできる可能性が広いし、何か面白いことができるのではないかなと思いました。

 

なつこ:米国大学院学生会はどんな活動をしているの?

 

かい:10年くらい運営している団体だと思うんですけど、理系だけではなくいろんな分野の人が集まっていて、日本の大学で留学に関する説明会をやったりしています。今回の一時帰国のタイミングで、東工大・北大・東大に説明しにいきます。

 

さとし:かい君は、いろんな団体を掛け持ちしてサポートしていて、すごく活動的だよね。

 

かい:今年は特にいろいろ動いたかも。動きすぎてるくらい笑

 

さとし:バイタリティの源は何かあるの?

 

かい:興味持ったらとりあえず動いてみるタイプですね。すごくエネルギーがあるタイプではないと思うんですけど、とりあえずやってみようと思って動きます。そのきっかけは、やっぱりマレーシアだったと思います。

 

さとし:留学をしてみることで、他のことに対してもフットワークが軽くなったり、飛び込みやすくなるってあるよね。どうなるかわからなくても、どうにかなるって思えるようになったしね。

 

一同:たしかにー!

 

博士過程のときに海外に初めて行って、「なんだ、英語話せなくても海外でもいけるじゃん」って思った。(さとし)

さとし:かい君やなっちゃんとは違って、僕は学生として留学したわけではなくポスドクで留学しています。自分は学生時代に留学行かなかったけど、国内でドクターを取るよりも海外でドクターを取った方が圧倒的に良いことを肌で感じていて。これからの若い後輩たちにもっと海外でドクターを取る選択肢を考えてほしいな、1人でも多くの学生が海外に出てくれた嬉しいなと思ってる。自分が行けなかった分、もっと若い人たちに行ってもらいたいなって。

 

ちひろ:行かなかったのはなんで?行く選択肢を考えたことがなかったの?

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さとし:まったく考えてなかったです。高校・大学・大学院ともずっと留学経験なく、短期留学さえしたことなかった。外国人といえば、実家の牡蠣養殖場に来る中国人の研修生くらい(笑)自分が会ったことないヨーロッパの人はきっと賢いんだろうなって考えているような、典型的なステレオタイプの日本人だった。両親も大学に行っていなくて漁師の家系だから、周りに留学している人はもちろんいないし、留学に行く選択肢はまったく思い浮かばなかった。だから、高校生くらいまでは岡山県から先の世界は考えたこともなくて、ベストの就職先は県庁や教師だと思っているような学生だった。

 

でも、高校のときにヨット部の部活動で全国大会に出る機会をもらって、日本を舞台に活躍する道もあると視野が広がったんだよね。ヨット部で中国大会で優勝して、県代表として国体にもインターハイにも出場して、日本で挑戦しうることを身をもって経験できた。

 

その後、大学に行くときに牡蠣の研究をしようと思って、牡蠣といえば広島大学だと思ってAO入試で入学しました。勉強していくうちに興味が広がり、最終的に釣りが大好きな先生のところに行って、その先生のもとでイカの研究を始めたというわけ。

 

でも、学部に入ったときからイカの研究をずっとやっていくことを考えていたわけではなくて、高校教師になろうと思ってたんだ。ヨット部で中国大会には優勝したのに、全国大会では入賞すらできなくてめっちゃ悔しくて。だから、今度は自分が高校教師になって後輩たちを全国大会で優勝させたいって思ってた。だから、高校のときから、大学4年間はひたすら部活動やって、2年間で研究して就職して高校教師になる6年コースを考えてたんだよね。

 

でも、大学でも日本一は取れなくて。で、大学院に入って研究始めたらこれが楽しくなった。高校教師になろうと思ってマスターに入ったけど、2年生になって、公務員試験、博士の入試、就活という進路を決めなきゃいけないタイミングになったときに、指導教官が「お前はもっと広い世界で活躍した方がよい」って言ってくれたんだ。それで、先は見えないけど、博士取って自分で人生を切り開いていくのも面白いかなと思って、博士過程に行くことにしたんだよね。

 

でも博士の入試のタイミングでは、海外はもちろん考えてないし、指導教官への恩返しもあって国内の他大に行くことさえ考えてなかった。それで、そのまま広島大学の博士過程に入ったんだけど、補助金とかをもらうときに研究業績を書くときに国際学会での発表がないのはありえなくて。このときに初めて海外に対して目が向いたかもしれない。それで、初めて行った国際学会がスイスで、フランス・イギリスと回って。これが初めての海外旅行でもあったんだけど、すごい面白くて。「なんだ、海外行っても意外といけるじゃん」って思った。

 

ちひろ:何が面白かったの?

 

さとし:とりあえずひどい英語でも通じて自信になった(笑)あと、英語そんなに話せなくても、一緒に笑って飲んでたら海外の人は仲間に入れてくれるし。昔からヨーロッパの人は賢いだろうって思ってけど、学会の発表内容とか聞いてて、そうでもないぞってことに気づけた。しかも、イギリスで訪ねた研究室の先生が学生を褒めるのがすごくうまくて。「お前のやってることすごいよ!」って言われたら、海外でもいけるかもなって思うじゃん。それで、海外に行ってみたいと思った。博士過程2年のときだから、24のときだね。

 

それでちょっと調子に乗っちゃって、日本でスピーチコンテストに出たら優勝できて、オーストラリアの世界大会に行ける権利をもらったんだよ。それで、英語たくさん練習して世界大会に出てみたら、トップ10入りしちゃって。

 

ちひろ:すごいね!!なんのスピーチをしたの?

 

さとし:博士過程の学生が3分で自分の研究内容をスピーチするというコンテストだった。イカについて話したよ。先生たちに「お前はしゃべるのが好きそうだから出てみないか」って言われて出たんだ。

 

なつこ:さとしさんの周りには良い示唆を与えてくれる人がたくさんいたんだね。

 

さとし:うん、とても恵まれていたと思う。スピーチなんてやったことなかったんだけど、意外と世界でも戦えるんじゃない、ってまた調子に乗っちゃったわけ(笑)

 

それで、博士卒業したあとどうするかを決めるタイミングになったときに、選択肢はいくつかあったけど、海外に行こうと思ったんだよね。文科省が出している若手研究者を2年間海外に派遣するプログラムに応募しようと思って、受け入れ先を探したときに、自分と同じ研究をやってて、かつ自分より先に行っている人を見つけて。このまま自分1人でやっていっても負けるから、共同研究申し込んで仲間にしちゃおうと思って。まったく面識のない先生なんだけど、とりあえずメール送って、その学生と国際学会で会ったんだ。そうしたら、一度UCLAに来てという話になって、文科省助成金が取れたら来ていいよってところまでこぎつけて。助成金が取れたので、UCLAに行ったというわけ。

 

海外でドクターを取る学生が増えてほしい。学生たちの視野を広げるきっかけになりたい。(さとし)

さとし:UCLAに行ってみたら、岡山・広島に行って社会人経験もない自分とはまったくバックグラウンドの違う人たちにたくさん会えて。人間的に魅力のある人ってこんなにたくさんいるんだなって知ったんだよね。その中で、日本でドクターを取っても、国際的には話にならない、という体験談をきいた。国内でドクターを取るよりも海外でドクターを取った方が、良いことを聞いたし、雰囲気を感じた。後輩たちにもっと海外でドクターを取る選択肢を考えてほしいな、1人でも多くの学生、もちろんポスドクも海外に出てくれた嬉しいなと思ってる。そのためのお手伝いができたらいいなと思ってる。

 

あとは、自分の場合、文科省の申請書の書き方とかどこにも情報がないし、すごく大変だった。指導教官からも、卒業後したら1人の研究者だから、今までのように面倒みないぞと言われて、具体的な研究計画はみてもらっていない。でもそのおかげで覚悟はできました。先生にはみてもらっていませんが、学会で会った研究者に申請書類を見てもらい、「絶対落ちるぞ」と言われたね。書いている内容が広がりすぎていて、どこが重要なのかわからない、もっと絞った方が良いとアドバイスをもらったけど、もうすでに提出済みだったから直せなくて。おまけに誤字脱字もあったから、「お前は来年の申請の準備した方がよいぞ」って言われていたけど、蓋を開けてみたら面接免除で即採用になった!たぶん熱意が伝わったんだと思う(笑)

 

なつこ:日本の学生たちは、海外のドクターを取った方がいいぞって言われることはないの?

 

さとし:言われないね。

 

ちひろ:それは、海外のドクターを取った人がいないから、海外に出る選択肢をアドバイスもできないってこと?

 

さとし:どちらもあると思う。先生の考え方で大きく変わると思う。僕のまわりでは、海外でドクターを取った人はいなかった。僕の指導教官は僕が海外に行きたいと話した時に初めて、海外にでるアドバイスを話してくれた。あと、例えば、研究室って師弟制度みたいなところもあるから、指導教官によっては「俺のところ入ったのに他のところ行くのかよ」「外に出たらもう戻ってこれないぞ」みたいに思う先生もいると思う。そういう人たちたいる大学だと、「国内の他大学院にいくことすらご法度」という空気だから、学生は海外に行くことなんて考えられないよね。

 

あや:東京と地方で結構差があるんだね。

 

さとし:うん、違うと思う。僕自身、広島にいたときは東京と地方で学生や先生の考えも違うのかなとぼんやり思っていた。uclaきて驚いたのは、学生が戦略的に良い研究室に行こうとしているし、それって自分の能力を高めるために当たり前だと思うんだけど、そんなことすらわからない世界に自分はいたんだよね。当たり前が全然違う。外に出ていなければ外の世界がどうなっているかはわからないから、誰かが言ってあげる必要があるんだよね。そのきっかけに自分がなれたらいいなと思ってる。

 

かい:それは大学に説明会に行っても思います。例えば、東大に説明会に行けば200人くらい集まるんですよ。だけど、地方に行ったら10人以下のこともあるから。

 

さとし:一部の研究者の世界だと、海外留学したい、大学院変えたいということ自体はばかられる雰囲気があるんだよね。教授のこと裏切るみたいな。変えるというと、「先生と何かあったの?」「先生と折り合いがつかないから辞めるの?」とかまずはネガティブな質問される。

師弟制度の中でポジションになっている人が何代も続いて今の指導教官になっているから、そのプロセスが当たり前になっているんだと思う。

 

なつこ:じゃぁ地元の友達からやばいヤツだと思われてる?

 

さとし:うん、思われていると思う!でも自分の人生は自分で決断してきたから、後悔は何一つない。

 

一同:爆笑

 

なつこ:海外留学行っただけで、あいつは違う世界のやつ、みたいに思われるところあるよね。

 

さとし:生きてきた界が狭い分、地方の人は違う世界を見たときの衝撃は大きいし、「こう変えたい!」って思うエネルギーも大きいと思うから、もっと海外に出てほしいと思ってる。

 

あや:地方問題は、別記事にしてもう一回話せそうだよね。

 

高校生時代に中国の高校生の勉強量見て「自分やばい」と思いました。社会人になって「えいや」で留学を決めてよかった。(なつこ)

なつこ:高校1年のときに、日経新聞社が高校生を対象に開催する「日経エデュケーションチャレンジ」というイベントに参加して、1日かけて様々な分野の社会人から「仕事とは?」みたいな話を聞いたんです。そのイベントは、イベントの感想文で応募するコンテストもセットになっていました。結果、全国から10人くらい受賞されてそのうちの1人に選ばれて、中国に1週間くらいの研修ツアーに行ったのが、自分にとって大きな海外体験になりました。

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ちひろ:なんでそのイベントに参加したの?

 

なつこ:当時私は地元の広島に住んでいたんですけど、姉が大学進学のために先に東京に出てきていて、夏休みで東京に遊びに来ていたんです。それで、姉が相手してくれない日が1日あったときに、父親が「こんなイベントがあるぞ」って勧めてくれて、やることもないし行ってみよう、という軽い気持ちで行きました。

 

ちひろ:全国から10人に選ばれるってすごい!実際にイベントではすごく感化されたの?

 

なつこ:すごく感化された!田舎で育って社会が何たるかも知らない高校生の私にとってはすごく刺激的だった。自分の周りの社会って、先生と友達と家族くらいしかない中で、日本の一流企業の人たちが仕事について話してくれて、すごく世界が広がったし、働くって面白そうと思いました。

 

コンテストで選ばれて行った中国では、企業訪問や、現地の高校生との交流会がありました。そこで初めて中国の学生に会って、中国人めちゃくちゃ勉強しているな、と驚きました。彼らの1日のスケジュールを聞くと、朝はやくから学校の特別クラス、通常授業を受け、学校が終わってからも勉強のスケジュールがぎっしりで衝撃を受けました。世界を知らない田舎の高校生だった私は、この話を聞いて「日本やばいな、自分やばいな」ってそこで初めて気づいたんです。

 

そこから世界に意識が向くようになって、いつか海外に行きたいなと考えるようになり、その後大学2年のときにゼミの研修旅行でロサンゼルスに行きました。費用は自分持ちでしたが、ロスで企業訪問をさせてもらい、ここでいつか何年か暮らしてみたいなと感じました。でも就活が始まってしまい、留学を考えるのはしばらく頓挫してしまい、その後1ヶ月間インドに短期留学もしましたが、長期の留学はできないまま社会人になりました。

 

社会人1,2年目はまたあっという間に過ぎてしまいましたが、3年目くらいに「あ、まずい、留学するなら今が最後だな」って思い始めたんです。年齢や、結婚・出産のことも考えると今行かないと、と思い、留学のための英語の勉強を始め、アプライして留学に至りました。

 

かい:学生時代に留学したいと思った気持ちをあきらめず、25歳くらいでやっぱり留学しようって思ったきっかけって何かあったんですか?社会人になったら忙しくなっちゃうし、周りにも同じような人は少ないだろうから、相当な思いがないと、留学に踏み切れないかなと思って。

 

 

なつこ:確かに、社会人で留学しようと思ったときは孤独だった。でも、大学時代に受講していたTOEFL講座の講師だった方と意気投合し、講座が終わったあともずっと仲良くさせてもらっていたこともあって、本格的に留学したいと思ったときにその方に相談したんです。

 

なんでこのタイミングで留学を本気で検討し始めたかというと、3年くらい経って一通りの仕事を経験して1人で仕事を回せるようになって、働き始めた時の目標だったお客さんから指名というのが実現して、コンサルの仕事は一旦やりきった感があったのだと思います。そこで次のステップで何かしたいなというのもあって、長く考えていた留学を実現させるタイミングかなと思いました。

 

ちひろ:留学することに怖さとかはなかったの?社会人になってから留学するってことは、職がなくなるとか失うものも大きいから。

 

なつこ:それでいうと、会社を辞めることになるのでまずは社内のメンターに相談したときに、「リスクしかないぞ」って一蹴されたんです。まずは抱えているリスクを全部洗い出せって言われて、その時ノートに書いたんです。例えば、帰ってきたときに再就職できないかもしれない、とか結婚できないかもしれない、とか最悪テロに巻き込まれて死ぬかも、とか考えうるリスクをすべて考えて書き出しました。

 

でも、全てのリスクを理解したうえでも、やっぱり留学したいと思えたので、そのことをメンターに伝えました。その後上司に話したときも「お前馬鹿だな」って(笑)順調にキャリアもつめているのに、今辞めてキャリアや人生がどうなるか見えない中でその決断をするって。会社としては人材流出を防ぐために引き留めなければならなかったのでしょうが、愛情あっての言葉で最終的には「がんばってこい」って応援してくれました。

 

今思えば、リスクを書き出してはみたもののあまり深くは考えていなくて、なんとかなるだろうと思っていました(笑)生活水準を落とせば食いぶちがなくなることはないし、テロに巻き込まれたらそれは運命だし…でもそうやって「えいや」で会社を辞めたことが結果的にはよかったと思います。

 

あや:周りに相談できる人はいなかったの?

 

なつこ:さっき話したTOEFL講座の講師がいてくれたことはすごく助けになりました。私が大学時代から留学に行きたいと思っていたことを知っているので、よく相談に乗ってくれました。あとは、会社の同期が2人MBAに行きたいと思っていたので、3人でTOEFL頑張って、出願頑張って、と助け合っていました。TOEFLの点数が出ないときも3人で慰め合いながら前に進んで、結果的に他の2人もMBAに行けました。

 

情報が何もなかったのはつらかったです。社内公募で先輩が行っている、というわけではなかったので、先輩情報もないですし。逆に情報が全くないことで、大学ランキングを見るところから始めて、何かに惑わされることもなくあまり考えずに留学準備を進められた部分もあったかもしれません。大学時代のロサンゼルス研修で、当時UCLAに留学されていた方のお話を伺いすごく憧れたので、場所としてはロスに行きたいというのもあったと思います。

 

かい:アメリカの大学院のあとの目標みたいなものは何かあったんですか?

 

なつこ:いや、あまり考えてなかった(笑)だから、志望理由を書くのは苦労しました。きっと海外に行ったら自分は何かを思うだろう、そうしたら何か次のステップが見つかるはずだと思っていました。

 

あや:たぶんそう思えたのは、高校生のときの中国の経験があったからなんだろうね。

 

なつこ:そうかもしれない。私がこんな感じだったから、会社の上司もメンターもはじめは反対したんだろうけど、なんとかなると思ってたかな。

 

かい:社内で留学する道はなかったんですか?

 

なつこ:あるにはあるんだけど、到達するのに10年くらいかかる上の役職でないと行けなかったんです。海外駐在でトレイニーで1年間海外に行ける制度はあったのですが、駐在は何か違うなと思っていたのと、駐在先はアジア圏しかなかったので、当時はあまり興味がなかったんですよね。あとは、転職して転職先から海外に行かせてもらう道も考えましたが、今は企業派遣も減っているし、転職してすぐに行けるわけでもないし。私費留学意外に道はなかったんです。

 

さとし:タイムリミットをすごく意識して行動しているよね。

 

なつこ:そう…でも今思うとあまり関係なかったかな(笑)

 

一同:爆笑

 

なつこ:でも結果的には、早く気づいて早く出たのはよかったと思います。もっと会社に勤めてから辞めるとなったら、それこそ重い腰が上がらなかったかもしれない。

 

孤独に留学準備している人を助けたい。留学は踏み出す一歩を手伝いたい。(なつこ)

なつこ:あやちゃんとちひろちゃんが留学関係のアンケートを取っていることは聞いていて、何か手伝えないかなと思ってたんです。私は、孤独で情報がなかったのが大変だったけど、一歩さえ踏み出せばなんとかなるということもわかっていたので、その一歩を踏み出すお手伝いができないかなと。

 

編集後記

この活動を一緒にやってきて思いをともにする仲間たちだけど、そのバックグラウンドや原体験は驚くほど違っていてあっという間に時間が過ぎていきました。次回はどんなエピソードが飛び出すか、楽しみにしていただけたら嬉しいです。

ぼんやりとした目標でもいい、高校卒業後の留学で自分が本当にやりたいことを見つける!

畑辺 将希さん

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基本情報

名前:畑辺 将希

所属(現):リード エグジビジョン ジャパン株式会社

最終学位:学士

年齢:34歳

性別:男性

出身地:熊本県

経歴

2004年9月:Citrus College入学

2006年12月:Citrus Collegeビジネス&リベラルアーツ卒業

2007年2月:OPT (Optional Practical Training)

2008年1月:OPT終了

2008年5月 :California State Polytechnic University, Pomona編入

2011年12月:California State Polytechnic University, Pomonaリベラルアーツ卒業

 2012年2月:リード エグジビジョン ジャパン入社

 

インタビュー

1 留学に至った経緯―普通の体育教師にはならない―

体育教師になって高校野球を教えるんだろなと思っていました。自分が高校生の当時、兄がアメリカのロサンゼルス近郊にいたので、兄からよくアメリカの教師の話を聞いていました。生徒や保護者、コミュニティの関わり方なども聞き、自分の中でのロールモデル・理想像はアメリカの教師になったのです。憧れを持ったアメリカの教師は、大学を卒業してそのまま教師になるのではなく、社会に出て様々な経験を積んで、教科書を通じて、自身の経験を交えて生徒に教える、そんな教師になりたい、と漠然と考えていました。また、通っていた熊本の高校は“チャレンジ精神”を大切にしていたので、日本の大学進学よりエスカレーター式に教師になる選択肢が一般的な中で、何かチャレンジしてやろうという気持ちがありました。あとはスポーツの最先端の国、野球でも世界一と称されるアメリカで学びたい!といった感じで留学することを決めました。

 

2 学校選びと学部留学―英語力がなくても何とかなる―

兄の紹介で、くまもと留学センター(現:留学サポート熊本)というところに行き、相談しました。そこで紹介されたのが、入学することになるCitrus College(以下、Citrus)です。いざ留学を心に決めたのは、良かったですが、高校まで野球ばかりで勉強をおろそかにしていたので自分の英語力はひどいものでした。それでもCitrusは受け入れてくれるといったし、Citrusは野球も強いし、といった感じで、あまり迷うことはなかったですね。なので学校を選ばなければ留学のハードルが高いとは感じません。その後勉強せずまま渡米したので、ホストファミリーと全くコミュニケーションが取れず泣く事になるんですが (笑) 渡米後、Citrusのサマースクール(英語)のテストに合格すればカレッジに進めるということで、5月に渡米してから死に物狂いで勉強し、なんとかテストに合格し9月からカレッジに入学できました。自分でもすごい勉強したと思います、でもこれまで野球に注いでたものを全部英語に切り替えただけなんですよね。語学学校に行く必要もなくそのままカレッジに行けたので、費用面でもかなり助かりました。Citrusに入学後は野球部の入団テストも受かったのですが、バッティングに重きを置いていて、ホームラン構成の戦術の中、他に戦術的なものを学ぶ雰囲気はなく、あまり日本に持ち帰るものはないなと判断、そこで野球を捨てました(笑)結局趣味として台湾人チームに入れてもらってやることにしました。そんなこと日本にいる時から調べとけよって感じですけどね(笑)

 

 

3 大学での学び・留学での学び―自分の生涯をかけてやりたいことを見つける―

こうして野球からは少し離れることになりました。CitrusではPE(体育)や教養科目の他に、幅広い世界を見たいという思いから、その基礎としてビジネスを専攻することにしました。ビジネスを学んでいくうちに、学んだことを実践したい、0→1を生み出す経験をしてみたい、という思いが強くなりました。この時考えていたのが、留学生が活躍する場を作るというアイディアです。場を作るには物理的に場所も必要です。学校の正式なクラブとして認められれば校内で場所を借りることができるため、インターナショナルオフィスに相談に行きました。そこにいたのがMr. Coeです。彼は本当に理解がある人で、クラブ活動を支援しオフィスとして金銭的な支援もしてくれました。今でも連絡を取っている恩人ですね。Citrus音楽学部が強いので、最初は150人ほどの音楽祭を企画しました。そこからファッションショーにまで拡げ、300人、400人と2年間で6度開催し、回数を重ねる毎に規模を拡大していくことができました。最初はひとりで始めたし、苦労も絶えなかったですが、それ以上に楽しかった。自分が誰かの活躍する場を提供できるということが本当に嬉しかったし、やりがいを感じました。

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カレッジを2年で卒業する時には、まだ何か中途半端だな、やり残したことがある、と感じたのでOPTとしてロサンゼルス近郊で1年間働くことに決めました。そこで、この後進む大学の生活費なども稼ぐことができましたし、経理業務を中心に複数の会社で働きました。そうして、California State Polytechnic University, Pomonaに編入し、学士まで取ることができました。生活していて感じたのが、日系社会がとても弱いということ。野球のWBCを見に行った時にも、韓国人や中国人は母国を応援しにたくさんの人が集まるのに、日本人は全然集まらない。でも、ロサンゼルス近郊で日本人ってとても信用されているんです。例えば、部屋を借りる際にも普通は必要になる頭金も日本人だったら払わなくていいよって言われたり。そういった日本人だからこその恩恵を多々受け、自分も日本人として誇らしくなり、母国心が強くなりました。そして、もっと日本社会を盛り上げたい、日本をもっと元気にしたいってこの時強く思いました。そして課外活動で自分で提案書を書いて、飛込営業で25,000ドル以上出資を集め日本からミュージシャンを呼んだりもしました。その頃に現在勤めている国際見本市を主催する会社に出会い、ビビっときたのです。自分の本当にやりたいことがこの会社で実現できると。各業界発展のために人・モノ・情報を集める、それを企画し提供する。よくよく思い返すと、最初にCitrusで留学生のための活躍の場を作りたいと企画した音楽祭と根底では繋がっていますね。

 

4 留学で得られたこと―ワクワクするような心や考え方に変わった―

異国の地で、日々、自身がやりたいことは何なのか、徹底的に考え向き合って動き続けたこと。それが今に繋がっていると思います。それからよく言われることですが、母国心が強くましたね。自分が日本のことを知らなさすぎたことに気が付きました。日本を出ることでアメリカ人だけでない他国の人と触れ合い、比較対象が増えました。視野が拡がる、世界観が変わるってこういうことなのかなって。また、日本にいたら出会えないような色々な面白い人と出会うこともできました。ビーチバレーボールの発祥の地、サンタモニカに行くと、ビーチの王様と呼ばれる有名人が普通にビーチにいて話がはずみ、日本のビーチバレーボール選手(弟)をアメリカに呼び、合宿して教えてもらえたり。毎日、良い出逢いがあるかもしれないから活動しないと、もったいない!と思えたのも留学したからこそ根付いた考えでした。留学のおかげでって考えてみるとたくさんありますね。女性に対しても、当たり前が当たり前じゃないと思うようにもなりましたね。九州出身なので九州男児の振る舞いが当たり前と思っていたのに、すっかりレディファースト精神に憧れて帰ってくるっていう(笑)今の妻も昔の自分では、ゴールインできなかったのかなと(笑)。キャリアの話としては、自分は海外系の案件を多く任せてもらっていますが、世界では、日本の当たり前が通じないという前提で考えられることは、今の仕事に大きく活きていると思いますし、留学して考えが変わらなければ、あらゆる事象を受け入れられなかったと思います。

 

5 将来と続く人へ―なんとなくでも動いてみればいい―

今は自分のやりたいことができていて充実した毎日です。将来的には地元である九州で国際見本市を開催することが目標です。やはり自分を育ててくれたところに感謝の気持ちもありますし、少しでも地域活性化に貢献できれば嬉しいなと考えています。留学する人の中で、自分のやりたいことが明確な人は2割くらいだと私は、思います。その他8割は自分が何をやりたいか分かっていない。そのうちの半分の人が何となくでも動いてみることができる人だと思います。自分はその半分だったのだと思います。高校時代、体育教師というぼんやりと目指すところはあったものの、これを何が何でもやりたいという強い思いにまでは至っていなかった。留学する人は皆、明確にこれがやりたいっていう2割だと思われているかもしれませんが、自分みたいに、ぼやぼやとイメージして留学する人も実際は、多くいると思います(笑)海外に出てみるということは、思っている以上に多くの刺激があり、学びがあり、否応なしに頑張ることになります。そこでやりたいことが見つかれば幸せなんじゃないかな。

 

 

 

編集後記

留学時代の日本人の友人がオーナーをしているという新宿ゴールデン街のバーでのインタビューとなりました。お酒を飲みながら、そのオーナーさんも含めて留学あるある話で盛り上がったりと、リラックスした中で、でもとても熱い想いを語ってくれました。畑辺さんとは筆者が日本で大学生をしていた時にロサンゼルスに留学をされていて出会ったのですが、自分の芯をしっかり持っていて軸がぶれず意見をはっきり言うところは当時と変わらず、インタビューを忘れるくらい懐かしい楽しい時間となりました。レディファースト九州男児もありなんじゃないですかね(笑)九州での国際見本市の開催を楽しみにしています!

 

インタビュアー:Natsuko Tanaka

 

パートナーへの帯同でキャリアを諦める必要はない-自分にしかできない道を求めて-

Chihiroさん

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基本情報

名前:Chihiro

最終学位:大学院

年齢:30代

性別:女性

出身地:東京

経歴

法科大学院卒業後、弁護士登録

中規模法律事務所、企業内法務部に勤務

2018年:Santa Monica College入学

2019年:Santa Monica College修了(Business Department Certificate取得)

 

インタビュー

いまされている活動を教えてください。

今は、アダルトスクールという、ロサンゼルス市が主に移民向けに提供している無料の語学学校に通って引き続き英語力の向上を目指しながら、今一番興味のあるアートマネジメントを学ぶため、アメリカの大学が提供しているオンラインの講座を受講しています。

アートマネジメントは、アメリカに来る前に働いていた環境とは全く異なる領域なのですが、大学に入るまでクラシックバレエのダンサーを目指していたこともあって、いつかは何らかの形で日本のバレエや劇場芸術を裏側から支えるお手伝いをしたいと思っているんです。アートマネジメントの分野は、日本に比べるとアメリカの方が圧倒的に学問も実務も進んでいるので、本も講座もたくさんあります。時間がある今、自分の大好きな分野の知識を増やす時間は至福のときです。

 

学校に行こうと思った/今の活動を選んだきっかけは?

元々日本の企業内弁護士として勤めていたのですが、主人の留学に伴い、会社を辞めて主人と一緒にLAに来ました。最後に勤めていた企業では、新規事業が日々立ち上がるような部署の法務担当として、新規事業が生まれる前から、担当者と一緒に法的リスクを調査したり、利害関係者の契約スキームを検討する仕事をしていました。弁護士としてのキャリアを開始した当初から、事業会社の外でクライアントからの相談を待っているのではなく、ビジネスに近いところで新しいものを一緒に創り上げる仕事をしたいという思いが強くてこの会社に転職したのですが、実際担当してみたら性にも合っていました。

 

なので、LAに行くことが決まって、日本に戻ってきたあとのことを想像したときに、これまでやってきたような起業家の支援を続けたいなと思い、この思いをベースに何かを身に着けてこようと考え始めました。弁護士というと、アメリカの法科大学院で学ぶ選択がすぐに頭に浮かぶのですが、私が仕事をしながら不足していると感じていたのは、アメリカ法の知識というよりは、起業家が検討すべき法務以外の分野の知識や、幅広い知識を踏まえたもっと実践的な支援のあり方でした。

 

そこで、もっと弁護士としての幅を広げるべく、起業(アントレプレナーシップ)について広く学べるプログラムを選ぼうと考えました。それと、もう少し後ろ向きの理由を言うと(笑)、主人の留学期間は2年の予定だったので、2年間キャリアに穴が空いてしまうのが怖いという気持ちも強かったです。なので、とにかく「何かやらなきゃ!」との思いの中で、何を学びたいのか必死に考えました。

 

学校選択の基準・決め手など

渡米する直前まで日本で働いており、英語のリーディングも得意ではなかったので、自ら多くの情報を調べる余裕はありませんでした。そこで、まずはエージェントを探し、主人が通う予定の大学に近くて、総合的に学べる大学はないかと相談した結果、同エリアで一番大きくて、アントレプレナーシップのプログラムもあるサンタモニカカレッジ(SMC)を紹介してもらいました。

 

日本に戻ってきてから転職する時に履歴書に書くことを考えると、USCやUCLAのエクステンションも選択肢にはありましたが、USCは学費が高すぎて自費では通えませんでした。また、UCLAは、アントレプレナーシップに特化したコースはなかったことに加え、私の興味のあるコースはcertificateの取得までに少なくとも3学期かかることがネックになりました。主人が大学を1年で卒業した後、2年目もLAに残るかアメリカの他の地域に行くかが当時は決まっていなかったので、LAには9ヶ月くらいしかいられない前提で大学選択をしなければならなかったんです。

 

パートナーとして帯同する場合、どうしても主たる留学者の都合に合わせなければならないので選択肢が狭められてしまうのですが、私はじっくり選んでいる暇もなかったので、SMCに一気に絞れて気持ち的には楽になりました。

 

留学前に大変だったこと、どうやって克服したか(金銭面、家族の説得、推薦状依頼など)

渡米直前に勤めていた会社は、転職して3年半経ったところで、自分自身の視座がやっと高くなってきて視野が広がりかけてきたころでしたし、社内にもたくさんのつながりができてより刺激を受けるようになってきたタイミングでした。なので、主人に帯同することでキャリアが絶たれるマイナスのインパクトは相当なものでした。当時は仕事にかけている時間がほとんどだったこともあって、帯同に伴って仕事を辞めるとアイデンティティクライシスに陥るのではないか、との不安が一番大きかったです。もともと行動していないと落ち着かない性格なので、「やることがなくなる」恐怖は人一倍だったと思います(笑)不安を和らげるには生活を充実させるしかないと思い詰めましたが、(ビザの関係で)通学かボランティアしかできないので、まずは大学に行くことに決めたのです。

 

また、私は幼稚園のころに親の転勤でサンフランシスコに住んでいた以外海外生活経験もなかったので、今回がほぼ初めての海外生活でした。なので、LAに移ってからの生活を思い描こうにも、不安なことが何なのかさえわからないという漠然とした不安にも襲われていました。結局、最後まで「行きたくない!」と騒ぎ続けながら、不安を全く払拭できない状態で渡米しました(笑)

 

主人について行かずに仕事を続けるという選択肢もギリギリまで考えていましたが、海外での生活は誰でも経験できるものではない、2年の期間限定で帰ってこれる、本当に嫌になったら帰ればいい、の3点で帯同することを決めました。結果、渡米以降一度も日本に帰りたいと思ったことはありません(笑)今になってみれば、「考えすぎず来ちゃいなよ、来てみたら良さがわかるよ」と当時の私に言ってあげたいです(笑)

 

学校に通ってみて/活動をしてみて良かったこと・気づいたこと

1つ目は、日本が海外からどう見られているのかを授業を通じて知ることができた点です。アントレプレナーシップのプログラムには、起業家精神のマインドを学ぶ授業や、会計・法律の基礎を学ぶ授業の他に、様々なビジネスの仕組みやその成り立ちを学ぶ授業がありました。その授業では、各国や有名企業の発展の手法を、関税などの経済システムや、資本主義・社会主義といった社会体制や思想、企業文化など、様々な視点からケーススタディで学びました。

そうすると、驚いたことに、日本の事例がたくさん出てくるんです。全部で17章あった全テーマを通じて、日本と日本企業の登場回数は特に多く、そして良くも悪くも取り上げられた国だったように思います。「良くも悪くも」の意味は、高度経済成長期の経済成長率やトヨタの「カイゼン」として知られる効率化の事例など、素晴らしい事例が華々しく取り上げられる一方、バブル以降は経済停滞から脱することができず、人口が減少して徐々に衰退している、との寂しい評価でも取り上げられていました。日本にいても、何となくは気づいてはいましたが、日々の生活を淡々とこなすだけでは世界の中の日本という視点で具体的に考えることはなかったので、「海外から見る日本」がどのようなものかを知り、自分の国を客観的に捉えられたのは新鮮でした。

 

2つ目として、起業家精神のマインドを学ぶ授業で面白かったのは、「1日実際にビジネスをやってみる」という体験型の授業です。4人ずつのグループに対して、教授からそれぞれ5ドルが渡され、その5ドルで1日ビジネスをして多くの収益が出たグループが勝ちというものです。ビジネスの内容に制限はありません。

 

例えば、ハリウッド山や学校の周辺でペットボトルの水を売るグループもいれば、女性2人でメイクのコンサルサービスを行ったグループもいました。私たちは、20歳の女の子のクラスメートの「アイスを作りたい!」の一言で、手作りアイスを作って学校の一角で売ることを決めました。30代の男性メンバーが飲食店を経営していたことも幸いして、自分たちが持つリソースをフルに持ち寄り、5ドルで材料を揃えることができました。当日は、よく晴れたこともあり想像以上の学生が集まってくれ、1個1ドルのアイス販売2時間で50ドルの利益を出すことができたんですよ。楽しかった!この体験型授業を通じて学んだことをまとめれば、「Think Big, Start Small, Act Fast」でした。

 

私は、アメリカに来てからというもの、英語が十分に話せないこともあって、持ち味だと思っていた「行動する」性格をすっかり出せなくなっていたのですが、この学びを得てからようやく動けるようになってきたように思います。英語学習のブログを立ち上げてみたり、Ref.代表のあやちゃんと留学に関するアンケートをFacebook上で実施するなど、今のPathfinders’につながるきっかけとなる小さな行動を開始したのもこのあとのことでした。

 

最後に、社会人になってから留学したことも良かったと思うことの1つです。すでにある程度世の中やビジネスのことも分かった上で新たな知識をインプットすると、学生の時よりも明らかに吸収できる内容が多いように感じました。ある程度働いた後に新しいことを海外で学ぶのは、新たな世界に目を開かせるきっかけになると思います。

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学校に通ってみて/活動をしてみてガッカリしたこと

1つ目は、カレッジだと、地元の高校を卒業したばかりの生徒が圧倒的に多く、私に比べるとかなり若い学生ばかりでした。私も高校卒業したてのときは同じでしたが、まだ社会経験がないため個人としての考えも成熟していないですし、社会や自国のことも十分に理解できていないのです。その結果、授業で刺激的な議論が行われるかというと、そうではなかったように思います。とはいえ、私も英語で議論などできない状態だったので、やっと理解できるレベルでちょうどよかったのですが(笑)

 

2つ目は、私のプログラムはアジア人すら少なくて現地学生が多く、なかなか会話を弾ませることができなかった点が残念でした。私は主人がロースクールに通っていたこともあって、世界中から集まるロースクール生との飲み会やパーティーにも参加する機会がありましたが、その時に思ったのは、英語ができなくても共通項があると話が盛り上がりやすく、友達関係を築きやすいということです。カレッジでは、ほとんどの学生が10歳以上年が離れ、バックグラウンドも大きく異なるので、なかなか仲の良い友達が作れないのが悩みでした。これは、私があまり英語を話せず積極的になれなかったという事情も大きいので、残念というか自分の実力不足への反省でもあります。

 

それに、「一から友達を作る」ということ自体遠い昔すぎて、友達の作り方を忘れていたというのもあったと思います(笑)。日本にいたときは、自分からどんどん話しかけていけるタイプだと認識していたのですが、そういえば自分は根っこの部分では人見知りだったことを思い出しました。言語というコミュニケーション手段を奪われると、自分を覆ったり武器になってくれるものがなくなるので、結構本質的な部分が表面に出るものだなと痛感しました。もしも、渡米して時間が経ってからカレッジに通っていたら、少し違う感想を持ったかもしれません。今になって思えば、私の場合は、キャリアに穴が空くことに焦らず、まずは英語にある程度自信がついてからアカデミックな学習と友達の輪を広げるプロセスに進めばよかったかな、と思います。

 

海外での生活を経て、新たに気づいた価値観や自分が変わったと思うところは?

小さな話ですが、ニュースや社会の動きへの関心の幅が広がり、情報収集にかける時間が圧倒的に長くなりました。日本で仕事しているときは、業務をこなすことこそが社会に貢献していることだと思っていたので、とにかく自分なりに一生懸命仕事をすることばかりにフォーカスしていて、新聞も自分の業務に関わりそうなニュースだけを読む毎日でした。ただ、今思えば当たり前ですけど、自分が業務で関わっている事象なんてほんとに小さな世界で、仕事にのめりこめばのめりこむほど、視野が狭まっていったように思います。そう思うようになったので、たぶん、今は、昔のように仕事を詰め込みすぎると、その狭い世界に飲み込まれそうになって息苦しく感じるのではないかと思います。これは、私にとっては本当に大きな価値観の変化です。

 

また、渡米してみて一番自分を変えたと思うのは、自分を見つめ直す時間が増えたことによると思います。日本にいたときは、目の前の業務をこなして日々暮らすことにいっぱいいっぱいになってしまっていて、中長期的に人生をどうしたいのか考える余裕はありませんでした。会社はたくさん考える機会を与えてくれていましたが、全く活かしきれていなかったと思います。なので、アメリカに来て、自分の拠り所だった仕事もない何もないまっさらな状態で、いくらでもある時間を使って、自分の使命は何か、社会にどう貢献したいのか、家族とどう過ごしたいのか、などに思いを馳せることは、私にとってはとても重要な時間でした。

 

冒頭で話したアートマネジメントの学習や劇場芸術の鑑賞に積極的に行くようになったのも、悶々と考え、何度も逡巡する中で「自分にしかできないことをしたい」と考えて取り組み始めたことです。日本のバレエや劇場芸術の世界について、気になっていること、取り組みたいことがたくさんあるんです。その中でもどんな分野についてどんな関与度で関わっていくのかはまだ具体的にイメージできていないのですが、今はせっかくアメリカにいるので、こちらでしか得られない知識や経験をできる限り吸収していきたいと思っています。そして、このインタビューを受けた以上、日本に帰ってからこのLA生活を生かしてしっかりそして楽しく社会貢献することで、次世代の留学を志す人たちが留学に踏み出す一歩の後押しをすることは義務みたいなものと自分にプレッシャーをかけつつ(笑)、これからも積極的に動いていきたいと思っています。

 

編集後記

自分のやりたいことに向かってパワフルに活動するChihiroさん。家族と仕事とのどちらかではなく、どちらも両立するために柔軟に行動していく姿勢は、お手本にしたいといつも思わされます。いち友人として、海外に出る人がもっと増えてほしいという思いから一緒にアンケートをとったりRef.の活動を始めたりと、熱くて優しいハートを持つChihiroちゃんにはいつも助けられています。LA生活を経てさらにパワーアップしたChihiroちゃんのご活躍を楽しみにしてます!

 

インタビュアー:Aya Yoshino

 

NASAで働く日本人エンジニアが語る、目標を叶えるための作用反作用の法則

髙橋雄宇さん

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基本情報

所属(現):NASA/Jet Propulsion Laboratory (ジェット推進研究所)

最終学位:博士

性別:男

年齢:33歳

出身地:東京都東久留米市

経歴

2004年 国際基督教大学高等学校卒業。JPLで惑星探査に関わることを目指して渡米。Embry-Riddle Aeronautical University(アリゾナ校)に入学。専攻はAerospace Engineering。

2007年 同大学卒業。

2008年 University of Colorado at Boulder, Aerospace Engineering Sciences Departmentの博士課程に入学。

2013年 同博士課程卒業。JPLに就職。Mission Design and Navigation(部署)のOuter Planet Navigation Group(課)に所属。衛星軌道のナビゲーションを担う。現在まで準惑星ミッションDawn、木星ミッションJuno、小惑星ミッションOSIRIS-RExに関わっている。

 

インタビュー

留学に至った理由を教えて下さい。

話は小学校まで遡ります。幼稚園の頃に親の転勤でシンガポールに引越しました。 家の目の前がアメリカンスクールだったのですが、私が通っていた日本人学校に比べると建物や施設がとても豪華でした。アメリカは凄い国なのかもしれない、という印象が当時の私に残りました。

 

小学校を卒業してから日本に帰国し、中学は地元の学校、そして高校はICU High School(国際基督教大学高等学校)に通い、6年間は日本で過ごしました。そして高校二年生の時にJPL がやっていた MARS exploration Rover という計画を知ります。これは火星探査のために車輪の付いたローバーという無人探査機を火星に着陸させる計画です。当時高校生だった私はテレビでその計画のイメージ映像を見たのですが、あまりの格好良さに衝撃を受けました。

ローバーがエアバッグに包まれており、それが火星の上をバウンスしながら着陸するんです。(https://wwwyoutube。com/watch?v=6t3IARmIdOI)エアバックなんて車に使用されるイメージしかなかった私は、エアバッグをローバーの着陸に使用する大胆な発想に驚きました。

 

その時ちょうど、物理の授業で重力について習っていて、まさに宇宙の話題はタイムリーでした。ロケットの打ち上げ、火星への軌道設計、そしてパラシュートやエアバッグを駆使した着陸。これは全て数学や物理、そして化学など理系の学問のなせる業です。当時は学校で習った内容を使って具体的に将来何をしたいか考えはありませんでしたが、その延長線上にはローバーを火星に着陸させるという現実世界が広がっているんだと、自分の中で道筋が見えとても感動しました。

僕が見たものは本物の着陸ではなくイメージ映像でしかありませんでしたが、それがきっかけで JPL で働こうと決心しました。

 

決心したときは、まだロケットの打ち上げもされていない頃でした。実際にロケットが打ち上がり火星に着陸したのが2004年の1月で、私は高校3年生でした。JPLの司令室の様子がニュース番組で放送されたのですが、火星に無事着陸したことが分かった瞬間に大の大人が飛び上がっては抱き合い、泣きじゃくるんです。

それを見て、これは本当に凄いことを成し遂げたんだなと思いました。大人が泣くシーンなんて滅多に見ないじゃないですか。そんなことは普通はオリンピックとかワールドカップとか、スポーツイベントぐらいだと思います。自分たちの成功に嬉し泣きするほどの感動がある仕事なんだ、そしてそれだけの情熱を捧げいている人間がいる職場なのだと思い、更にJPLで働きたいという思いが強くなりました。

 

JPLがあるのはアメリカなのだからアメリカ人が働いているだろう。それならばアメリカ人が受けている教育を受けなければいけない、という単純な理由でアメリカ留学を決意しました。迷いや不安は特にありませんでした。

 

学校選択の基準決め手は何でしたか?

留学すると家族に伝えたら、父親がある一言を言ってくれました。それは、「目的がないなら留学をするな」です。僕が高校生の時には「グローバル」という言葉が流行っていて、漠然とグローバルになったらかっこいいんだ、海外で英語が使えたらかっこいいんだ、というイメージがありました。そんな中途半端な理由で留学して欲しくないと、親が心配したのかもしれません。目的がないなら留学をするなと釘を刺されました。

 

例えば英語活用能力について言うと、アメリカ人の小学生でもペラペラ英語をしゃべるわけです。その子たちの英語の方が、僕が一生かかって習得する英語よりも明らかに自然で上手なわけです。だから英語能力を上げて戦うのではなくて、自分の持っている技術を高めて戦いなさい、英語に惑わされるなと親に言われました。英語はただの手段であって目的では無い。そのことを肝に命じて、自分が学びたい宇宙工学の分野で一番の教育を求めないといけないと思いました。

 

大学選びは大学ランキングを指標にしました。アメリカ人は何でもランキングを出したがります。数字に表すことが好きで、住みやすい街ランキングなんかも出ています。競争を大事にする文化の表れかもしれません。大学ランキングについても、大学だけではなくて学部や分野ごとのランキングまで出ます。僕が高校生の頃はサーチエンジンが非力だったので、ヤフー検索のコツとかを授業を習っていた時代です。当然、情報収集は本でした。池袋のジュンク堂で US NEWS を買ったりして情報を集めました。自分の行きたい Aerospace Engineeringという分野のランキングを見つけ、毎年一番を取っていた学部は、アリゾナにあるEmbry-Riddle Aeronautical University(エンブリー・リドル航空大学)だったので、そこの学部に入ろうと決めました。

 

MITといった世界的に有名な大学も受験しましたが、全て落ちてしまったので、結局は一番行きたかった大学にしか受かりませんでした。そういうのも運命なのかもしれません。もしたまたまでもハーバードに受かっていたりしたら、邪念が入ってそっちに行ってしまったかもしれません(笑)

 

留学前に大変だったことどのようにそれを克服しましたか?

先ほども話しましたが、家族の説得はとても簡単でした。英語の勉強ではなく、宇宙工学を学ぶために留学したいと伝えたので親は反対する理由がありませんでした。金銭面についても、両親は何も言わずに払ってくれました。親にはとても感謝しています。

 

これは私の想像ですが、両親が海外に駐在していた間に、知り合いの子どもが留学するといったケースの話を聞いていたのでしょう。うちの子ども達が留学したいと言い出すかもしれない、と思って親は貯金をしていたのだと思います。僕は3人兄弟ですので、実際問題として、3兄弟全員が留学するのは不可能だと思います。僕は長男ですので、何でもできたというのはあると思います。仮に私に兄がいて、先に留学をしていたら自分は留学できなかったと思いますよ。それは本当に幸運だったと言うに尽きます。

 

推薦状については高校の先生に書いてもらいました。私が通った ICUHSにはネイティブの先生もいましたし、日本語で書いたものを翻訳してくれる先生もいたので特に苦労することはありませんでした。僕の在籍中は帰国子女と日本教育を受けてきた生徒の熟練度の差を考え、英語・数学・国語は4段階にクラスが分かれていました。中には日本語が第二言語で英語が第一言語というような生徒もいますし、全員に対して同じ授業をするわけにはいかないので、当然なことではあると思います。

 

英語に関しては4番目のレベルのクラスでもハリーポッターの原著を英語で読んだりするんです。僕は英語のクラスは3番目のレベルにいましたが、今思えばレベルは高かったのだと思います。当時自分が授業を受けているときはそんなこと夢にも思いませんけどね。英語で書く文章は日本語に比べてルールが多いですから、エッセイの書き方なども習いました。それは実際に出願時のStatement of Purposeを書く時にも役立ちました。そういう意味ではとても恵まれた環境にいたと思います。

 

他に何か不安や大変だったことはありますか?

英語については、僕は日本の平均から見ると英語ができるレベルですけども、焦りはありました。アメリカに行ったことがなかったので、どんな国か知らない不安もありました。

TOEFLも点を取るのに少々苦労しましたね。TOEFLは留学生の英語の熟練度を証明するための試験ですが、点数を上げるために、塾に2、3ヶ月くらい通いました。高校生は僕だけでしたから、おそらく社費留学とかでTOEFLが必要な人が来ていたのではないでしょうか。当時のTOEFLは文章読解がメインだったので、コツを掴めば簡単に点数を上げることができました。これは受験勉強の賜物だと思います。

最初に受験したTOEFLはとても点数が悪くて焦りましたが、とりあえずTOEFLは何回でも受けて基準点をクリアすればいいので、足切りを超えたところで勉強をやめました。

 

TOEFLより大切なのが、 SAT という共通の試験で、数学と英語の2科目でした。いわゆる、アメリカのセンター試験です。SAT試験は、高校3年生の時に受けました。TOEFL同様受験は何回でもできますので、一番いいスコアを送ります。そういう意味では1回勝負ではないので日本の受験に比べるとはるかに簡単だと思います。TOEFL足切り点を超えれば良いですが、SAT は満点に近ければ近いほど良いです。数学はとても簡単で、小学生でも出来るような数学でした。

 

ですが英語は本当に難しかったです。単語帳等を使って英語の点数をちょっとずつ上げましたが、これ以上は点が伸びないと気づいたので、勉強をやめました。ICUHS の同級生で、ネイティブレベルで英語を話す友人が難しいと言っていました。それを聞いて数ヶ月勉強しただけの付け焼刃の英語ではお話にならないと思い、努力することを止めました。諦めるのとは違い、まぁなるようになるだろうという開き直りに近いものです。おそらく2、3回はSATを受けたと思いますが、でもこれ以上点数は上がらないと思ったのでその後も無意味に繰り返し受験することはしませんでした。

 

日本を離れて留学することに不安はありませんでしたか?

特にありませんでした。アメリカの大学を受けて全てダメだったら、次の年にまた受ければいいかな、と思っていました。その時は日本の大学も候補に入れて。一般の人からすると留学は、知らない場所にいく勇気のある人がするものだ、という感覚があると思います。でも僕はそんなこと思っていません。日本人は、何かあれば日本に戻ることができるんですよ。だから留学は特別すごいことでは無いと思います。

 

どなたが言ったのか分かりませんが、「喧嘩するときは相手に絶対に逃げ道を作れ」という言葉を聞いたことがあります。 逃げ道をなくすと、冷静さを失ってムキになり信じられないような力を出すので、絶対に逃げ道は作れということです。喧嘩と留学を並べるのは乱暴かもしれませんが、留学については、逃げ道として日本に戻ることができます。結局は、日本に戻ることはできるし、日本の大学に行くことも出来るという思いがあったので、留学に不安や恐怖心はありませんでした。

 

両親から、あんたアメリカ行って大丈夫なの?と言われたこともありませんでした。親が不安がっていたら、子どもにその不安が伝わると思います。それを考えて、親はそのような態度を見せなかったのかもしれません。日本を旅発つ時も、いってらっしゃいと言われただけです。私は思い詰めるタイプではないので、失敗すれば戻ってくればいいやと思っていました。ただし失敗するとめちゃくちゃカッコ悪いので、留学したら留学したで絶対に頑張ろうと思っていました。実際、大学にいたときは人生で一番勉強したと思います。

 

実際に大学に行って、学んで良かったことを教えてください。

私の実体験からすると、学部から留学する必要は無いと思います。やはり、留学の目的は、自分のスキルを磨くことです。私がJPL に雇われたのは、英語が出来るからでは無く、エンジニアのスキルがあるから雇われたわけです。言葉のスキルではなく技術を評価されたわけです。大学の本来の目的は自分のスペシャリティを高めるため、技術を専門的に習得することです。ですが、実際に大学の学部の授業で学ぶことは、全て教科書に入っていることです。別に大学に行く必要さえないという考え方も一理あります。ホリエモンじゃないですが、自分で勉強しとけばいいじゃん、という意見も一理あります。

 

しかし私が学部留学で何も得ることが無かったかと言うと、決してそうではありません。私が留学することで得た1番のメリットは授業では無く、人との出会いです。

アメリカで多くの人に出会い、いろんな生き方を見て、日本では考えられないような人達に出会えたことは良かったと思います。

 

例えば、エンブリー・リドル航空大学の学生の半分ぐらいは、軍隊から奨学金をもらっている人がいて、彼らは軍服を着て学校に来ていました。あと、日本ではみんな大学に行くのが普通ですよね。でも、同級生の中には、家族の中で自分が初めて大学に来たという学生もいました。驚きました。自分が大学に行って、職について家族のために稼がないとダメなんだという人もいました。

日本で育っていると、そのような話を聞くことはあまり無いと思います。そして学生達の国籍もバラバラです。アフリカやインド、さらにお前の国どこにあるのって思う国から来ている人もいました。そのような人たちと出会えた事はとても良い経験になりました。

 

もう一つ大学で大切な事があります。それは、大学では出会う人のサンプルサイズが大きいということです。小学生、中学校はその近くに住んでいる人が集まるので、バックグラウンドも似たり寄ったりで、出会う人数も少ない、つまりサンプルサイズは小さいです。

大学になると県外からも多くの人が集まり、バックグラウンドも様々で、つまりサンプルサイズが大きくなります。アメリカの大学となると、海外からの学生も多いので、日本の大学に比べて更にサンプルサイズが大きくなります。面白いことに、大学を卒業して仕事を始めると、サンプルサイズが小さくなります。なぜなら、同じ会社で同じような目的意識を持った人と仕事をするからです。だから、大学というものはどんな人にとってもサンプルサイズが一番大きくなる時だと思います。その時に多くの人と出会うことによって、自分とは異なる生活、性格、考え方を学ぶ事が出来ます。

 

留学して何も苦労が無かったかといえばそうではありませんでした。外国人はJPLで働けないということがわかり、当時危機感を感じました。留学する前は、良い成績を取って卒業すればJPLに採用されるだろうと、安易に思っていました。アメリカは自由の国だって言うじゃないですか。それを信じ切っていた私は、留学前に一番大事なところを調べ損ねていました。

 

考えてみると当たり前ですが、国の機関だから外国人は働けません。外国人は日本の公務員になれないですよね、それと同じです。これはヤバイ、と思いました。ですがラッキーなことに、私が大学3年生の時に取った授業の先生がドイツ人だったのですが、昔はNASAで働いていたと言っていたんです。それを聞いて私は、この人はドイツ人なのにどうしてNASAで働けたんだろうと思いました。すぐその先生に話を聞いてみると、私は Ph.D.を持っていて、NASAが欲しい技術を持っていたから雇ってもらえたんだ、と話してくれました。そこで私も Ph.D. を取ろうと決断しました。以前からもPh.D.に興味がありましたが、先生の話を聞いてからPh.D.の取得が必要条件になり、Ph.D.を取らないと自分が留学をした意味が無いことが分かりました。

 

当時、大学3年生で将来のことを考える時期でしたので、その先生が思い出話をしてくれなかったら、私は大学院の重要さに気付かなかったわけです。巡り合わせが良かったなと思います。大学の同級生は大学1年生の時からインターンシップに行っている友達もいました。私も真似をしてボーイングロッキードという航空関係を探しましたが、最低でもグリーンカードほとんどは US CITIZEN(市民権)が必要という条件でした。日本にいる時にはそのようなことを全く知らなかったので驚きました。チャンスは一度失ったけど、チャンスを与えてくれる巡り合わせがあったこと。その出会いには本当に感謝しています。

 

残念だったこと、苦労したことはどんなことですか?

がっかりしたことで言うと、アメリカ人は思ったほど学力が高くなくて期待はずれでした。アメリカでは日本人が高校3年生で習う数学Ⅲや数学 C を、大学1、2年生で学習したりするわけです。日本ですでに教わった内容でしたから、僕は勉強しなくてもテストで点が取れます。大学2年生までは英語の勉強だと思って数学を受けていました。アメリカでさえ大学の授業のレベルは低い。それは逆に言えば日本の教育レベルが高いということかもしれないと、日本の教育を見直す機会にもなりました。

 

これは僕の感覚ですが、アメリカでは大学最初の1年間を乗り越える人が全体の70%ぐらいしかいません。日本では落第する人が何人かいるのか知りませんが、日本の方が少ないと思います。アメリカには SAT 等がありますが、基本的にはアメリカ人は受験勉強をせずに大学に入ってきます。日本人みたいに根詰めて勉強した経験が少ないんです。だから大学の早い授業のペースについて行けず、脱落していく人が多いんです。多くの人はそこで諦めて、這い上がれない。メンタルが弱い人が多いなと思いました。アメリカ人は何にするにしても口上手ですから、言い訳も上手です。僕はそんなに言い訳考える暇があったら勉強しろよ、とか思ってましたけど(笑)

 

メンタルが弱い、につながるかもしれませんが、アメリカでは高校生まで学校の送り迎えは親がします。日本だったら小学生や中学生が自転車等で通学するのが普通で、帰りにスーパーやコンビニで寄り道しますよね。アメリカ人はマザコンかと心配になるぐらい親が大好きな人が多くて、用事もないのに親と毎日電話する人も沢山います。そんな友人を見て、この子達は小学生かと思いましたよ。なんでそんな家族に甘えているんだと思いました。僕は日本から自分一人で覚悟を決めて来たのに、なぜこの人たちはたかが隣の州に住んでる親と毎日電話してるんだろうと思いました。そんなに精神が不安定なのかとも思いましたね。数年住んでいればそれはアメリカの文化なのだ、と理解出来るのですが、最初渡米した時はとても驚きました。

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Ph.D.の大学はどのように選びましたか?

僕はナビゲーションでPh.D.を取りたいと思っていました。先ほど話した大学ランキングではエアロスペース(航空宇宙工学)という分野ではランキングがありましたが、ナビゲーションはありませんでした。エアロスペースより細かい分野までランキングが出ていなかったんです。そもそも大学院選びにはランキングは重要では無く、指導教官が大事だということは聞いていたので、大学選びの時のようにランキングを指標にすることはしませんでした。

 

コロラド大学を選んだ理由ですが、それも運の巡り合わせです。私が大学4年生の時の先生がナビゲーションに関して強い大学院を数校、勧めてくれました。その先生もコロラド大学の卒業生だったのですが、結局はミシガン大学にいる先生と研究がしたいと思うようになりました。そして長い夏休みを利用してミシガン大学まで直接目的の教授に会いに行きました。

ミシガン大学はAnn Arborというとても綺麗な町にあり、この町なら住みたいなぁと思っていたのですが、面談が始まるや否や翌年からコロラド大学に移る予定だということを告げられました。その後帰り道にコロラド経由でアリゾナに戻りましたが、ボルダーという町もとても綺麗な場所で、キャンパスの目の前に広がる山脈の美しさに一瞬で心を奪われました。ミシガンからコロラドまで行くだけで20時間以上運転しましたから、中々気合が入っていたなと当時の自分を振り返って思います(笑)

 

幸運にもその指導教官と大学院で研究できることになったのですが、さらに幸運だったのはその指導教官が昔 JPLで働いていた経験があったことです。最初に携わっていた研究は、研究費がJPL から来ていましたので、研究している過程で JPL の職員と何人か繋がりができました。 コロラド大学には高橋というやつがいる、ということをJPLの何人かに覚えてもらいました。

 

JPL に働きたいと思ってアメリカに来て、 PhD研究の最初の研究費が JPLだったというのはすごいラッキーだったと思います。例えば再度学校に入り直して同じことを二度やれと言われても、絶対無理でしょう(笑)その研究は指導教員が書いたプロポーザルだったので、自分が書いたわけでありません。そのファンディングは2年だったので博士課程の途中で終わりましたが、その後3年間の研究費をスポンサーしてもらった小惑星ミッション(OSIRIS-REx)はJPLで働いている今でも継続して行なっており、無事に打ち上げも見届けました。現在は目的地の小惑星ベンヌを周回していますが、最初から最後まで見届けることができると思うととても幸運です。

 

先ほどから高橋さんが言われている、巡り合わせが良かったというのはなぜだと思いますか?

先ほども話しましたがサンプルサイズが多く、色々な人に出会って吸収する機会が多かったからだと思います。パーティーでも何でも誘われたら断らず、顔を出すようにしていました。あと、それ以上に大切なことは、自分が何をしたいかというのを伝えることです。これは日本人が苦手な事かもしれません。私も日本人の社会人と会う機会が多いですが、会社の名前を言ったり、名刺を頂いたりしますが、結局その人が何をしたいのかわかりません。個人として何者なのかを伝えることが大切です。私はアメリカに来て学んだことは、自分が何をしたいのか、何に興味があるのかを相手に伝えないと、相手から興味を得てもらえないということです。

 

私は物理法則で人生に役立つものはたくさんあると思っているのですが、物理法則で作用・反作用という言葉があります。英語ではアクション・リアクションといいます。リアクションするというのは受動的なものです。誰かが話してたら、それに反応する。というのは受動的なものですよね。リアクションというのは、野球に例えるとただ単にキャッチャーになってるだけです。

一方、アクションは能動的です。こちらからアクションを起こし、私はこういうことがしたい、将来何をしたいです、という話を能動的にします。すると相手は、こいつはこういう志を持っている人間なんだと把握してくれますし、聞いていて嬉しくなりますよね。

そのような人間は、相手の心を打つのだと思います。いろんな人に会った時、まず自分からアクションして自分は何者かを明確にすることで、どんどんリアクションが広がっていくと思っています。ただその場にいるだけではなく、自分のアクションを起こすことが大事。そこで初めて、相手から助けてもらえる可能性があるわけです。

 

私は昔から、自分自身が何をしたいかをとずっと口に出してきました。具体的に JPL で働きたいということを周りに言い続けてきました。そうすると、周りの人間から、高橋はJPLで働きたいんだ、ということを覚えてもらえます。すると周りから、JPLにコネがある人を紹介してもらえるというリアクションが入ってきました。もちろんラッキーという部分もあると思いますが、自分からアクションを起こす、自分が何をしたいかを伝えることが大事だと思います。何をやりたいかが分からないと、助けようがないですよね。

留学でどのような結果を得て、結果を得るためにどう動いたかを教えてください。

留学している間、特にPhDの間は研究を頑張るしかありません。エンジニアという職業はチームの職業なので、人間関係も大事です。あと、先ほどから繰り返していますが、自分からアクションを起こさないと、なにも得られません。

 

例を挙げると、ある学会に参加した時、ディナーの席でJPLの方が隣の席でした。初対面だったのでその人がJPLで何をしているのかよく分からない状態でしたが、私はその人に対して、僕は JPLで働くために留学に来て、今はPh.D.で研究をしていて将来はJPLで働きたいという話をしました。 もちろん突発的にそういう話をするのではなくて、自然な流れの中でやります。いきなり自分の夢を語り出すのは不自然ですから(笑)

 

すると、実はその相手の人は僕が働きたいと思っていた部署の部長で、高橋はやる気があるやつだと認識してくれたのでしょう、私がJPLに行くことを助けてくれました。これも自分からアクションを起こした結果だと思います。これは僕個人の見解ですが、私がやっぱり見てて気持ちがいいのは、目的意識を持ってる人や自分から行動を起こしている人です。そういう人たちのエネルギーは波及効果があるとおもいます。

 

留学の結果についてですが、私は大学の学部はあまり関係ないと思います。就職には大学院でやった研究や学会で発表した内容、また学会で会った人、そういう要因が大きいです。だから、大学院留学というのはとても価値があると思います。私の場合は、国籍の問題をクリアするためにも大学院留学をしなければいけませんでした。

 

お給料に関して博士課程を経て何かメリットはありましたか?

当然博士課程まで行けば学部卒や修士卒の学生よりも年収は高いです。アメリカでは普通、仕事のオファーがあるとまずは給料を上げてくださいと交渉します。引っ越し手当を増やしてくださいとか。私は何も言わずにオファーさえあれば何でもいいと言って、仕事のオファーを取りました。だから、お金の面で待遇が変わったか特にわかりません。

 

一貫した思いを持っていないと、周囲の応援度合いは変わってくるでしょうか?

研究内容は変わってもいいと思うのですが、最後のゴールはぶれない方がいいと思います。ぶれると、手助けしてくれた人も損だと思うのではないでしょうか。私はアメリカの大学院に留学したい学生からアドバイスを請われて手助けすることがありますが、そういう子たちが大学院を辞めたりすると、少し残念な気持ちになりますね。まぁ他人の人生なのでとやかくは言いませんが、せっかく手伝ったのだから最後までやってほしいという気持ちもあります。

 

私は初めからJPL で働きたいと言って変わらなかったから、私を助けてくれた人たちは見ていて気持ちが良かったんじゃないでしょうか。首尾一貫していたので助けてくれたのかなという気持ちもあります。個人的な感想ですが、助け甲斐がある人と無い人はいると思います。

 

今後どうしたいかをお聞かせください。

実は、今の仕事は趣味だと思っています。私みたいに宇宙の仕事をする人間からすると、宇宙の歴史は130億年あって、その中で自分の人生は100年だとすると一瞬なわけです。自分が生きている間に人類が火星に移住するだとか、地球外生命のサインを検出すると言った、宇宙の大発見を自分が全部見届けることができるとは思っていません。期待はしていますが、「それは時の流れに任せる」といった感じです。

 

研究するモチベーションとしては面白いですし、それはそれで素晴らしいことなのですが、それと同時にこんなでかいスケールで宇宙があるのに、自分の短い一生で全てを知ろうと思うのはおこがましいとも思っています。野心がある上で、宇宙のスケールに照らし合わせて謙虚にならないといけないなと思っています。今の仕事は趣味の延長線上で、少しずつ人間の知識に貢献できればいいと思っています。

 

だからそこまで宇宙の仕事に関することで野望はありません。部長になりたいとか偉くなりたいという気持ちもありません。むしろ偉くなるとエンジニアの仕事ができなくなるから嫌ですね。私は常にエンジニアとして計算しているほうが楽しいです。今やっている仕事では、色々なプロジェクトに関わり、色々な側面から宇宙を見ることが出来るのでとても満足しています。今は小惑星木星のプロジェクトにかかっていますが、星が変わると宇宙の違う側面が見えてきます。

 

宇宙以外にやりたいことと言えばビール屋さんを開くことです。ですがビジネスで成功したいともあまり思わないし、経営にも興味ありません。毎日行きたくなるようなビール屋さんが近くに無いので、自分で作ろうかなとか、そんな感じです(笑)もうかれこれ7年ぐらい家でビールを作っていますが、結構美味しく作れるんですよ。ビール好きが集まるお店で、ある程度の生活が出来れば良いなと思っています。

 

いずれにせよ、何かを作ることに関わっていきたいと思っています。作る仕事というのはゼロをイチに変える仕事だと思っています。否定するつもりは全くありませんが、お金を左から右に流して利益を得ることに、私は何もモチベーションを感じません。それは形がある物を何も作っていないからです。「私が作ったプロダクトはこれです」と言えるような、手に残る物を作り続けていきたいと思っています。

 

私が学生の時はJPL に憧れがありました。JPLは自分の手の届かない所にありました。ですが Ph.D. を通してエンジニアとしての能力も身についてきて、全てやりたいことは実現可能だと思うようになりました。何か成功したと人というのは、基本的なことを続けていった結果成功したのだと思います。今はゴールを設定して、着実にステップを踏めば何でも達成できるという自信があります。学生の時は JPL で働きたいということは大きなモチベーションであり、そこに絶対到達したいゴールがありました。そのような大きな目標を今立ててくださいと言われても難しいです。やりたいことが無いとか道がないとかと言いたいわけではなく、なんでも実現可能な範囲で物が動いている感覚があるということです。もう少しリラックスして人生と向き合うことができているということかもしれません。

 

問題は、ではいつ物事を行うのか、そのタイミングだと思います。何か大きな目標を言えるとかっこいいと思うんですが、特に無いんですよね。ビール作りをやりたいっていう話をしていると、友人からじゃあデザインを手伝いますよと、何かお手伝いしますよ、という人がいてくれます。これもやはりサンプルサイズを増やしてアクションを増やしリアクションを増やすということを続けている結果だと思います。世の中には、アインシュタインのように一人で式を解いてしまう人間もいますが、ほとんどの人間はチームで仕事をしています。人に頼るところ、自分でやるところ、そんな境界線も今は自分の能力が大体分かってきたので、割とはっきり見えるようになってきた気がします。

 

将来アメリカで何かしたいけども、一歩が踏み出せない人に、エールを送っていただけますか?

人間の50%以上はスタートしないと思っています。スタートした時点で半分以上にはなれると思っています。いや80%ぐらいかもしれません。動き始めた瞬間にトップ20%にいます。だから絶対に動いた方がいいです。考えるなとは言いませんが、動く方が大事ということを伝えたいです。考えることに時間を費やすよりは、絶対に動くことに時間を費やす方が良いです。先ほどのアクション・リアクションの話にもつながりますが、自分から動かないと始まりません。

 

英語の勉強について

僕は英語の勉強を全然してません。勉強してないと言うのは、実際に勉強していない訳ではなくて、勉強したと頭で思っていないということです。どういうことかと言うと、例えばTOEFL の点数といった途中にあるゴールというのはただの必要条件です。その勉強で燃え尽きてしまうのは本末転倒ですよね。英語に集中しすぎてエンジニアの勉強を怠ってしまうというのは、目的を履き違えています。

 

そのように付随してくる勉強、絶対にしないといけない勉強というのは時間を使わないといけないかもしれませんが、メンタリティとしてはランニングと一緒で惰性でやるぐらいがいいと思います。本気で集中して頑張るのではなく、とりあえずやらなきゃいけないなと。食器洗いと同じです。そこに気持ちを入れすぎると、人間は疲れてしまいます。

 

全てのことに100%の力で取り組むことはできません。だから、一番力を入れるところと、第2、第3と自分で優先順位をつけて把握することで、頑張りすぎないというもの大事だと思います。頑張ってしまうと、自分はこんなに勉強した!と言う事実に満足してしまいますから、とりあえず雑用を片付けた、ぐらいの感覚で英語を勉強すれば良いと思います。

 

目標について

目標というのは設定の仕方が大事です。私は JPLに就職する、というわかりやすい目標がありました。これが例えば年商10億円を稼ぐ、という風に目標を掲げたとします。でもそれって、何をどこからスタートしていいか、具体的にわからないですよね。 JPLで働きたいんだったら、宇宙の勉強をするとか、なんとなくわかります。ですがお金だけだと、何がしたいのか分かりません。

 

例えば麻薬を売ってお金を儲ける人もいますし、自動車を作ってお金を儲ける人もいます。同じ10億円でも、手段が全く異なります。そこのコアになる、何をしたいのかという動機が大事です。高い目標を立てることは全然構わないと思います。 例えば自動車だったら機械工学だったり材料工学だったり、色々道が見えてきますよね。そのように具体的なステップが描ける目標がいいと思います。抽象的な目的と具体的な目的を認識出来ないと、目標設定がぶれてしまうかなと思います。

 

話は戻りますが、私は昔から自分がやると決めたら、何も考えずに動く性格でした。今、アメリカに来て15年経ちますが、改めて、何事もまず動いた方が良いと思います。失敗することもありますよ。でもほとんどの人は、動かない。考えてない人は動かないし、考えている人も動きません。考えながら動ける、もしくは動きながら考える人間になることが大事だと思います。僕も高校生の時にとりあえず行動に起こしてアメリカに来た。あの時の自分は無知でしたが行動力があった、それは今でも誇れることです。

 

編集後記

高橋さんと初めて知り合ったのは、ロサンゼルスにあるUCLAで開催された日本人むけの研究セミナーだったと思います。私の研究発表が終わった後、面白かったよ!と高橋さんの方から笑顔で声をかけてくれました。ちなみに私は、海洋生物のイカに関する研究を紹介しました。

後日、私は高橋さんが行うJPLツアーへ参加し、夜にはご自宅で自家製ビールを頂きました。出来立てホヤホヤのビールです。市販のものより香り豊かで美味しく、感動したことを覚えています。その時に高橋さんが話してくれた留学の体験談や苦労話がとても面白かったので、改めてインタビューをお願いし、本記事にまとめました。

高橋さんはJPLで働くことを夢見みて大学から渡米、そして見事にJPLへ就職し、いまは衛生軌道のナビゲーションを担っています。留学から就職までの約10年間を振り返って高橋さんは、大切なことは何事もまず行動し、自分のやりたい事や目標を周りに話す、つまり自分からアクションを起こすことだと語っています。さらに高橋さんは、宇宙はスケールがとても大きく、自分の短い一生で全てを知ろうと思うのはおこがましいとも語っています。高橋さんは情熱と謙虚さを併せ持っているからこそ、周りの人達から応援され、サンプルサイズに比例して素晴らしい巡り合わせを掴んできたのだと感じました。

 

インタビュアー: UCLA 笘野哲史

文系学部卒からのアメリカ理系大学院進学!そのモチベーションと戦略とは?

新井紀亮さん

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基本情報

名前:新井紀亮(あらい のりあき)

所属(現):カリフォルニア工科大学材料科学科博士課程

最終学位:学士(法学)

年齢:30歳

性別:男

出身地:長野県松本市

経歴

2012年:慶應義塾大学法学部政治学科卒業

2012年:東京理科大学第二部物理学科編入

2013年4月:理化学研究所 パートタイマー(一般事務)

2013年:技術系中小企業 非常勤研究員

2014年5月: 理化学研究所 パートタイマー(実験補助)

2014年:東京理科大学第二部物理学科退学

2014年:結婚

2014年10月:理化学研究所 テクニカルスタッフII

2015年:理化学研究所および技術系中小企業 退職

2015年:カリフォルニア工科大学材料科学科博士課程入学

2020年:カリフォルニア工科大学材料科学科博士課程(予定)

 

インタビュー

なぜ留学に至ったのか

アメリカの大学院を志したきっかけはなんだったのでしょうか?

これに答えるのは結構恥ずかしいのですが(笑)。慶應大の学部3年の9月くらいには普通に就活をしていて、自分が何をしたいのか考えていました。その時ちょうど『ソーシャルネットワーク』の映画を見て、インターネットの世界で Facebook を作ったマーク・ザッカーバーグをかっこいいと思いました。Web上のサービスに限らず、製品など、モノを作って世間に貢献するのってかっこいいなと思ったんですよね。その製品を作るには技術が必要で、最先端の技術があるのはアメリカだと思いまして。アメリカに行くには、アメリカの大学院に入るのが手っ取り早いかなって思ったのがきっかけです。

本当に単純すぎて誰にも言ったことがないんですよね(笑)

 

慶應大の法学部政治学科から、理系への転向かつ海外留学という道を選んだわけですが、何から始めたのでしょうか?

そこから逆算して、どうやったらアメリカの大学院に行けるかを考えました。自分は、目に見える形での理系のバックグラウンドがなかったので、アメリカのLiberal artsの学校のPhysics majorの学生と同等に授業をとり、かつどこかで研究経験を積まないといけないと思っていました。ただ、自分は理系の大学に編入して卒業研究するまで在籍できる金銭的な余裕はないとわかっていたので、昼間は研究経験を積み、夜は学校で勉強するという計画を立てました。

 

高校の時に物理が得意だったので、慶應大卒業後、東京理科大の第二部物理学科(以下、理科大夜間)に編入しました。なので、学部4年の4月(2011年)から日系企業の採用が始まっていましたが、もうその頃には就活はせず、理科大夜間の編入のための勉強をしていました。

 

理科大夜間編入後から実際の受験までの道のりはどういうものだったのでしょうか?

家から遠くないところに、理化学研究所(以下、理研)がありました。昼間研究するために、どこか当たるといいなと思って理研の研究室のパートタイマーに複数応募したのですが、ことごどく落とされました(笑)。自分は慶応大法学部卒業とはいえ理系の学生としては1年目ですから、使い物にならないですし。でもめげずに、ちょっと興味があるなと思ったら応募していました。理科大夜間編入のちょうど1年後の2013年3月に面接に呼ばれ、やる気だけはあります、とアピールした結果、そこの研究室に所属することになりました。本当、拾ってもらったに近かったですね(笑)。そして、研究室の先生が経営する会社でも非常勤として働くことになりました。だから当時は、午後3時くらいまで理研で働き、そこから理科大に行って10時くらいまで授業をとるという生活を1年ぐらいしました。

 

学校選択の基準・決め手など

自分はそもそも受験できる大学院が少なかったんです(笑)

理科大夜間を退学した後(2014年)に、理研の先生が、私のことをUniversity of Chicagoの先生に紹介していただき、自分のバックグラウンドについて確認する機会がありました。その時、どうも理系の学士がないとアメリカの大学院入学は難しいと聞きました。アメリカの大学院の出願条件の中で、一番最初によく来るのが”理学、工学のbachelor degree or equivalent”なのですが、学位はなくとも理科大で授業を取った自分は”equivalent”に該当すると理科大を退学するまで思っていました。でも実は、理学、工学の学士かそれ相当の資格を持っていなければならないという意味だとその時やっと気づいたんですよね。

 

なので、自分のバックグラウンドだと応募できるのはカリフォルニア工科大学(以下、カルテック)とマサチューセッツ工科大学(以下、MIT) しかありませんでした。

例えば、カルテックは違う書き方をしています。(”As preparation for advanced study and research, entering graduate students are expected to have a thorough background in undergraduate mathematics, physics, and engineering.(http://ms.caltech.edu/academics/grad/ms))

学部(レベル)のPhysicsのバックグラントがあればいいとなると、自分はそれに該当しました。さらに、カルテックの初代学長のロバート・ミリカンは、実は、学士は西洋古典文学の学士で卒業しています。「1891年に西洋古典学の学士号を取得。オベリン大学で2学年まで修了した時点で、ギリシア語の教授に「ギリシア語で優秀な者なら誰でも物理学を教えられる」と物理学の講師を頼まれた。それまで物理学には全く縁がなかったが、夏休み中に勉強し講師を務めるようになった。これがきっかけで物理学を志すようになった。(wikipedia)」だから、カルテックにはそのDNAがあったんですよね、これは勝手に自分が信じてるだけなんですけど(笑)

 

ちなみに、カルテックを初めて知ったのは、カルテックの先生の講演を理研で聞いたときでした。その人の研究が面白いと思い、後にその先生に連絡をして、研究の話などをしました。MITの先生からは連絡しても返信がなかったので、無理だろうなと応募した時点で諦めてはいました。どちらも記念受験だと自分では思っていました(笑)

 

留学前に大変だったこと、どうやって克服したか

留学前に大変だったことは何でしたか?

自分をどうアピールするかについて、(文系学士から理系アメリカ大学院という)前例がないので、ゼロベースで考えなければいけませんでした。つまり、慶應政治学科を卒業してからの2年間で、どうやって、理系の学部4年間ないし修士2年間勉強した学生と遜色ない実績を、目に見える形で作れるかと、一から考えました。Resume、志願理由書、推薦状のどれをとってもです。他の人から考えると無謀だと思われていたかもしれませんね。実際、当時会った日本の先生には、無理だよとは言われないまでも、会話からそう思われているのが分かりました(笑)。

 

その苦難をどうやって克服しましたか?

すごい難しい道のりなのはわかっていました。それでも、留学までの道のりを逆算して計画を立てて頑張りました。例えば、実は理科大夜間の合格と同時に、早稲田大学工学部(以下、早稲田)も受かっていました。周りの人からは知名度の高い早稲田に行ったほうがいいよと言われていました。でも、夜間の授業がない早稲田では、2年間授業のみに時間を費やすのに対し、理科大夜間では、昼はバイトとして研究所に入ることができます。もちろんいろんな人にアドバイスをされましたが、自分の計画を信じて理科大夜間を選びました。

 

精神的な意味では、準備の期間は自分は合格できると信じ切っていたので、それが本当大きかったと思います。やると決めたからには、自分自身がコントロールできない部分はもう心配しないようにしました。自分に任された、自分にできることを精一杯やろうというのが自分の当時の心境でした。例えば、昼は理研の研究を精一杯頑張る。理科大夜間の授業の成績は絶対に最高のS評価を取り続ける。TOEFLとかGREとか志願理由書とかも、自分にできることをひたすら精一杯頑張る。家族や理研の先生方がサポートしてくれたのは、本当大きかったと思います。

でも、今となっての後悔は理系のBachlorがないとほとんどのアメリカの理系大学院に入れない事実をもっと早めに知っておくことだったと思います。

 

そのモチベーションはどこから来ていたんでしょうか?

(留学のきっかけである)『ソーシャルネットワーク』の映画だと思います。 そのDVD を持っているのですが、何回も見ました(笑)。あれが不思議と自分のモチベーションを保ってくれました。マックザッカーバーグかっこいいなって(笑)。あの映画は本当好きなんです。

 

アメリカの大学院受験について、周りからの反応はどうでしたか?

自分は、慶應大を卒業してから、カルテックに入学するまでの3年間で、今の妻と付き合い、婚約して、結婚までしました。付き合うときにはすでに留学すると決めていました。彼女は国家資格を持っており、それで働くと当時は決めていたので、長い年月を経て説得した形になったと思います。もしかしたら今でも日本にいたいと思ってるかもしれませんね。今でも覚えていますが、2015年3月24日にカルテックから合格をもらったときは、妻はすごい喜んでくれました。一緒にしゃぶしゃぶを食べにいきましたね、すごい応援してくれてたんだなと思いました。

幸いにも自分の両親、彼女の両親、理研の先生方もアメリカ留学を非常に応援してくれていました。推薦状も理研の3人の先生から頂きました。環境には恵まれていました。

 

大学(大学院)で学んで良かったこと、留学時にやって良かったこと

材料科学を学べてよかったなと思います。材料科学はこれからすごい大事だと思いますし、すべての技術のベースだと思っています。

 

材料科学に興味をもったのは、理研の先生が経営する会社で働いてた時でした。その会社の、40~90℃の廃熱で電気を生み出すという技術を聞いた時に、そんな低温で電気を生み出すなんてすごいな、と直感的に感じました。その会社で、自分は海外からの問い合わせの担当もしてたのですが、いつも「コストはいくらか」という質問を受けており、それがひとつの壁になっていたと思います。使われている材料や、その材料の加工費用によるコストを抑えることができれば、さらに製品が普及していくと思いました。だから、理論上は人の役に立つ技術でも、製品として世の中に出していくにはより安価な材料で作らなければなりません。

 

そこで、製品として最大のパフォーマンスを出すために、また、安くあるために、どういう材料・製造プロセスを使えばいいかを考える「材料科学」に興味を持ったんですね。大学院でその「材料科学」を学べて、今の研究室でも材料製造プロセスに関連した研究をできているので、すごいよかったなと思います。

 

また、自分は研究室選びを丁寧に行いました。カルテックに着いた初日に、自分の研究内容と合っていた、第一志望の先生に挨拶をしました。定期的にグループミーティングにも出ており、当時はここに入ると決めてはいたのですが、ちょっと一歩踏みとどまって他も見ることにしました。研究内容だけではなく、研究室の雰囲気も考慮して選ぼうと思いました。指導教員との相性や、研究室の学生の雰囲気とかです。他の研究室のグループミーティングに参加したり、話を聞いてみたりした結果、現在所属している研究室が合うなと思いまして、そこに所属することになりました。

 

留学中・留学後にガッカリした内容(卒業後の就職、授業内容など)

カルテックに来てガッカリしたことはありますか?

カルテック でガッカリしたことはほとんどないですね。それは自分だけじゃなくて妻にとってもです。カリフォルニアは気候もよく、 カルテックにはSpouse Club(大学院生やポスドクの配偶者の集まり)もあり、奥さんが楽しめる環境もあります。また日本食レストランやスーパーもあるので、大変過ごしやすいです。

 

ただ、一つ挙げるとすれば、自分の出来なさにがっかりしました。

例えば、アメリカの大学院留学をしている人のブログ記事では、みんなが言うほど大変でもない、頑張ればできると書いてる人が結構いると思うのですが、自分は本当に正反対でした。自分の所属する材料科学科の学生は10人ぐらいいるのですが、彼らに比べて自分は頭の回転も遅く、記憶力もなく、極めつけに材料科学のバックグラウンドもありませんでした。それで劣等感しか感じなかったですね。できない自分に本当がっかりしました。

なので、研究室での自分の立ち位置を確立するのに大変苦労しました。最初1年間は、一人一人の個が目立つ少人数のグループで、自分のvalueを出すのに苦労しました

 

その中でどうやって研究室での立ち位置を確立したのでしょうか?

これは、留学のなかでは大変苦労したと思います。 みんな頭の回転が速くて弁が立つわけです。でもある時から、実際に証明できる実験が究極だと思ったので、実際に手を動かして、結果をもって証明することをしました。実験屋というキャラクターを研究室で築いたんです。自分には実験屋としての自負があって、これには誰にも負けられたくないと思います。

 

将来の進路についてと、それに向けて現在どう動いているか

卒業の進路としては何を考えていますでしょうか?

卒業後にやりたいこととしては、今の研究している技術を使っての起業です。

いま研究室で、ある病気の診断と治療を短時間で行えるデバイスを作ろうとしています。従来のやり方では、その病気の診断に24時間また数日以上かかっているため、治療が遅れ、致死率が高いのが現状です。その診断の短時間化のための技術開発に取り組んでいます。もしこの技術開発がうまくいけば商業化できると思っています。

 

もしこれがうまく行かなかった場合には、ウォルトディズニーの研究所で働きたいと思っています。自分はディズニーが大好きで、結婚記念日もウォルトディズニーの誕生日なぐらい大好きなんです(笑)。ウォルトディズニーは僕がカルテックに来た2015年と翌年の2016年に、材料科学者のインターンシップを募集していいたのですが、2017年以降全くなくなりました。そして、Linkedlinを見ても、ウォルトディズニーのMaterials scienceの人ってすごい減ってきています。なのでもうウォルトディズニーは材料科学に興味はないのかな、とも思っています。

 

それだけ好きなウォルトディズニーより、起業が第一志望なのはどうしてでしょう?

例えば、自分がウォルドディズニーを求めていても、募集がなかったり、またウォルトディズニーが自分を求めていない場合は(就職が)難しいじゃないですか。だから、目の前のことを頑張り、そこから開けてきたものをやればいいと思っています。ウォルトディズニーへの就職のために準備するなら、もう少し自分の研究内容がウォルトディズニーに近いものになるように選んだほうがいいと思うのですが、そんなことをしても、自分の就職のタイミングでディズニーが求めていなかったら意味はありませんから。

 

今回、インタビューを受けてくださってありがとうございます。自分のやりたいことに向けて、一般的なレールを外れて自分の道を進んでいる新井さんに感化されました。

レールを外れるっていいですよね。一回外れるとレールに乗らないといけないという不安がなくなるので、自由な選択ができるようになります。例えば、新卒採用も自分はなかったです。その後はもう自分の後悔のない、自由な選択ができるようになったと思います。

 

編集後記

新井さんは、私にとってカルテックの材料学科の一つ上の先輩です。改めて留学までの経緯や将来の話を聞いて、『ソーシャルネットワーク』を見たときから今まで、「製品」を作りたいという思いを貫き、それに向け邁進している新井さんに大変感化されました。自分のバックグラウンドや、”一般的な”進路設計に関係なく、やりたいことを見つけ、前例がなくてもそれを実現していく新井さんの話を共有することで、少しでも「培った能力」や「前例」にとらわれない選択をしようとしている人たちへの励みになればと思います。(少なくとも私は励みになりました(笑))

インタビュアー:成田海

 

 

 

米国Ph.D.留学に修士号は不要!?−自分の研究テーマを追求して−

馬渕祐太さん

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基本情報

所属(現):Cornell University, Department of Neurobiology and Behavior, Ph.D. Program

最終学位:学士

性別:男

出身地:千葉県柏市

経歴

2017年 北海道大学理学部生物科学科卒業

2017年 Cornell University, Department of Neurobiology and Behavior, Ph.D. Program 入学

 

インタビュー

日本国内の大学の修士課程を修了後にPh.D.留学する学生に比べて、学部卒の直後にPh.D.留学する学生は多くありません。北海道大学理学部生物科学科(生物学)を卒業後すぐにコーネル大学(イサカ,ニューヨーク州)のPh.D.課程に進学した馬渕祐太さんにお話を伺いました。

 

留学に至った経緯を教えてください。

中学生・高校生の頃は周りから言われずとも比較的勉強はする方だった気はしますが、改めて考えると、好きで勉強していたというよりは受験のためにとりあえず勉強していたという感じだったと思います。そうした中でも、生物学の勉強には面白みを感じていました。それはおそらく、小さい頃から漠然と生き物の多様性に興味があり、生物学という学問を学んでいくうちに、多様性がなぜ、どのように生み出されるのかを知りたいと考えるようになったからだと思います。その時は、そうした疑問を明らかにするのに、研究者という道もあるんだなというくらいに考えていて、それから大学受験をして北海道大学に入学しました。

 

受験が終わって、やっと自分の好きなことを突き詰めて勉強できると考えていた私は、札幌での初めての一人暮らしを謳歌しつつ、自分なりに研究者になるためのキャリアパスについて書籍などを通して情報集めを始めました 。そこで海外で博士号を取るという道があることを知り、なんとなく面白いと思いました。 中学生時代にオーストラリアに海外研修に行ったのですが、すごく楽しかったという原体験の記憶があります。もともと受験科目としての英語は得意だったこともあり、海外で研究するのもありだなと思い始めました。調べるうちに、大学院の出願には、例えばGPAや推薦書など、日本の受験にはないプロセスが色々とあり、何から手をつけていいのかわからなかったため、大学1年生のうちは英語の勉強を軽くするくらいの準備しかしていませんでした。

 

そんな中、大学2年生の時に米国大学院学生会主催の海外大学留学説明会が北海道大学でも開催されていることを知り、参加することにしました。その説明会で、当時南カリフォルニア大学に留学されていた生物学系の先輩に具体的な体験談を聞くことができました。例えば、日々の研究生活でどんなことをやっているかということや、アメリカの博士課程では給料をもらいながら研究ができるというような事も知り、ますます海外の博士課程に進み研究する事を目指すようになりました。

 

学校はどのように選択しましたか?

当時は知識が十分ではなかったのですが、アメリカには生物系の研究に強い大学や研究所がたくさんあると本やウェブサイトに載っていたので、そうした情報を信じて、留学先はアメリカがいいと決めていました。

 

最終的に出願先は6校ありました。学科のレベルはもちろん考慮しましたが、それよりも自分のやりたい研究ができそうかどうかを基準にしました。大学3年生の時に生物系の中でも特に神経生物学に興味をもち、4年生の卒業研究でもその分野のラボに所属し、日々の研究や学会発表を通して、本当に自分のやりたい大きな研究テーマは何かという方向性について見つめ直しました。そこで、出願が迫っている時期だったのですが、自分のやりたいテーマは雄と雌の行動の性差であると思い至り、行動の性差の神経メカニズムの研究をしているアメリカのラボに絞って大学を探し始めました。

 

そのテーマ、あるいはそれに付随した研究ができるラボが2つ以上ある事を最低条件として探した結果、最終的に6校に絞られました。というのも、アメリカの生物系の博士課程では1年目に複数のラボのローテーションを行ってから所属ラボを決めるので、本命のラボが1つしかなかった場合、そこに入れなかったりそこの先生と合わなかったりすると悲惨なので、そのように選びました。

 

出願して実際に受かった複数の大学の中からコーネル大学を選んだのですが、その理由はいくつかあります。一つ目は出願時にコンタクトをとった興味のあるラボの先生が丁寧にやりとりをしてくれたことです。これから長い研究生活を一緒に送っていけるかどうかということは大事だと考えていたので、実際に会って話してみても凄い良い人達だったことは大きかったです。二つ目はVisiting Weekendという書類審査を受かった候補者(出願者150人中10−15人ほどに絞られた)が実際に大学に呼ばれてインタビューを受けるイベントがあるのですが、そこでコーネル大学神経科学部門では魅力的な研究をされている色々な先生たちがいるという事を、実際にお話をする中で知ることができた事です。三つ目は自分が入学する最初の年に、神経科学科と工学部が連携して、NeuroTechという神経科学分野の研究に必要な技術開発や応用を目指す部門が設立されたことで、分野横断的な研究ができるという強みがあった事です。

 

留学するにあたり、何が大変で、どうやって克服したのかを教えてください。

留学前に一番大変だった事は、日本の大学での卒業研究と留学準備との両立でした。留学の準備にも、書類作成や入学のためのGRE(Graduate Record Examination)という統一試験や英語の試験であるTOEFLの勉強など色々とやることが多く、マルチタスクの処理能力が求められました。GREは北海道では開催されず、東京まで行かなければならないなど、立地の不便さを感じることもありました。

 

卒業研究については、それ自体をクリアするのが大変だったというよりは、(実現しませんでしたが)卒業するまでに論文を1本書いておきたいという思いが自分にあったために日々体力勝負な状況でした。3年生からラボに出入りして実験の基礎を固めて、4年生でもそこでお世話になったラボで卒業研究に取り組みました。そのラボの先生がとても協力的で、4年生のうちから学会発表をする機会もいただきました。しかし、その学会発表も準備が大変で、出願先候補のアメリカの大学を訪問する直前に東京で発表があり、発表の前後で訪問先の先生たちとやりとりをするという状況でした。

 

自分の場合、大変だったことを一言で言えば、同時にやらなければならないことが多すぎたということです。ちなみにアメリカでは、学部を卒業後、大学院に入学する前に1−2年の準備期間(gap yearと言います)を取る学生が多いです。その間は、ラボのResearch Assistantととして働く人が多く、雑務をこなしつつ研究を行い、経験を積んで、大学院に出願します。

 

大学で学んでよかったこと、留学時にやって良かったことは何ですか?

まだ留学期間としては2年弱なのですが、その中で一番良かったと感じる事は環境面です。日本にいる時にはあまり意識していなかった事なのですが、日本で博士課程に進むというと周りからは「お疲れ様」という雰囲気が少なからずあるように思うのですが、こちらの博士課程ではそういった雰囲気は一切ありません。学内だけでなく、地元の方からも研究頑張ってね、といったようにむしろ尊重されているように思います。また、世界中から自分と同じく神経科学を学びたい同年代の学生が集まるので、お互いの研究や将来やりたい研究について熱く語れる刺激的な環境があることを何よりも素晴らしいと感じています。さらに、私の所属する学部は比較的小規模ではあるものの、神経科学で独立した学部が形成されているので、さまざまな分野の専門家がおり、技術的な協力や研究上の密なアドバイスも受けやすい環境が整っています。

 

日本に比べて金銭面でのサポートも充実しています。私の学部では、博士課程1年目は大学からの授業料、生活費、医療保険費といった経済的サポートが全員に保証されています。自分は日本国内の船井情報科学振興財団から2年間の奨学金を得たのですが、大学の規定で1年目の大学からのサポートと合わせた二重受給が禁止されているので、1年目は大学からのみ奨学金を受給をしました。船井情報科学振興財団は奨学金の受給に関して、非常にフレキシブルに対応してくださるので、二年目以降は卒業要件に含まれるTA(Teaching Assistant)やRA(Research Assistant)として働き、大学や指導教官から給料をもらう以外のタイミングで、奨学金を受給をすることが可能です。

 

働き方についても、人それぞれの生活スタイルが許されている雰囲気があることはいいなと思いました。これはラボによると思うのですが、自分のラボでは特にコアタイムのようなものは設けられておらず、自分のペースで研究に打ち込めることは自分にとって合っていました。

 

また所属するラボの先生の推薦で、この夏にウッズホールにあるマサチューセッツ海洋研究所(MBL)の8週間のサマーコースに参加することが決まっています。色々な実験手法や実験動物の実習を体験できるだけなく、学生や研究者たちとのネットワークを作ることができる貴重な機会だと思うので、今から楽しみです。さらに、ラボの先生と一緒に研究費獲得のための計画書をこれから書く予定で、そのような研究者として必要なスキルも学ぶ機会があることもありがたいです。参加費は100万円を超えるので非常に高額ですが、出費を厭わず、そうしたコースに参加する機会をくれる指導教官には感謝しています。

 

逆にガッカリだった内容はありますか?

先ほどの生活スタイルの話と関連するので矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、働かない人は働かないというところが残念に感じました。全然働かない人も一定数いるということが、日本と比べれば目立つところだと思います。

 

ちなみにコーネル大学があるイサカはニューヨーク州の中でも北のかなり田舎の方に位置しています。土地の不便さに関しては来る前から覚悟はしていたので、そこまでガッカリはしませんでした。夜中に一人で歩いていても全く問題ないほど治安が良いので、生活面で大変と思うところはさほどありません。寒さについては学部時代に北海道に住んでいたのでそれほど気にはなりませんが、夏の暑さだけがかなり辛いです(笑)

 

留学でどのような結果を得て、結果を得るためにどう動いたかを教えてください。

これまでの2年間の中での話ですが、まず結果として伸び悩んだのが英会話力で、思ったよりも上達しませんでした。これは自分がもっとパーティなどに積極的に参加するなどソーシャライズするように動くべきだったと思います。これは今後の課題です。

 

一方の研究面については順調で、面白い実験データが出て来ています。これは具体的に工夫したというよりも、日本にいる時と同じようにとにかく研究に打ち込みました。日本にいる時と変わった点は生活習慣くらいです。日本では朝9−10時にラボに来て深夜に帰るという夜型スタイルだったのですが、アメリカでは朝型の生活スタイルに切り替え、朝5時半に起き、6時過ぎにはラボに着き、夜の8時には帰宅しています。結果としてラボにはメンバーの誰よりも早く着き、一番最後に帰るようになりました。

 

あと、家から大学まではバスで通学するのですが、朝一番早い便に乗ることでラッシュに巻き込まれるのを防げるという利点もあります。毎日朝一のバスに乗るため、何人かいるバスの運転手さんが全員自分の顔を覚えてくれていて、止まる合図を出さなくても、自分の学部の前の停留所に止まってくれます(笑)他には、朝大学のジムに行くと空いてる利点もあります。

 

ただ、この生活習慣の変化が研究成果に直接結びついているというよりは、とにかく毎日コンスタントに研究に取り組むということが大きいと思っています。根性論に聞こえるかもしれませんが、良い結果が出ようと出なかろうとコツコツ働くのも、研究を進める上で大切なことなのかなと勝手に思っています。また私の場合、自分一人で研究していると視野が狭くなってしまうので、こまめに指導教官にデータを見せるのはもちろん、同じラボのメンバーだけでなく、同期や友達や学部の上級生、Committee Member(自分の卒業論文を審査する先生方)にも研究の話を積極的にして、フィードバックをもらうように心がけています。

 

馬渕さんは将来はどうしていきたいですか?

アカデミアに残って自分のやりたい研究を続けて行きたいと考えています。今自分の興味のあるテーマは性差や社会行動の神経メカニズムなのですが、自分が取り組んでいく研究の方向性をより具体的に今後も考えていかなければならないと思っています。学位取得後はポスドクになると思うのですが、今は特にアメリカのなかで探したいと考えていて、ポスドクとしてどうしても日本に戻りたいという希望はありません。最終的にはPI(Principal Investigator)として自分のラボを持ちたいと考えています。どこの国で研究室を持ちたいという希望は現時点ではないのですが、アメリカやヨーロッパでPIになれるだけの英語力は今後身につけなければいけないと思っています。

 

編集後記

私にとって馬渕さんは北海道大学理学部の行動神経生物学(旧・行動知能)講座のいちおう後輩にあたります。私がアメリカ留学中に一時帰国で北大に遊びに行ったときに、学部3年生の彼とはじめてお会いしたので、直接の後輩というにはおこがましいのですが。

 

その頃はまだ彼は卒業研究前でしたが、すでにラボに通って実験に打ち込んでおり、非常にself-motivatedな希有な学生という印象でした。その頃から学部卒ですぐにPh.D.留学を考えているということを当時の彼のボスからかねてから聞いておりました。少なくとも私が北大の理学部生物科学系に在籍していた当時、学部卒でアメリカにPh.D.留学した学生は聞いたことがありませんでした。彼は4年生の秋頃に入学試験の準備のために候補の大学をツアーしてまわっており、Caltech神経科学系のラボにも訪問するということで、そのときに私の友人達の力も借りて出来る限りの協力をする機会がありました。

 

やりたい研究のために必死に頑張っていた彼が最終的にCornell大学への入学を決めたときは、私も大変嬉しかったです。そんな彼の近況報告と、詳しく聞けていなかった留学の経緯までもあらためて聞くことができて、個人的にとてもエキサイティングなインタビューでした。非常にタフな彼ですが、これからも健康を崩さず、研究者人生を豊かなものにしていってもらいたいと願います。

インタビュアー:冨菜雄介(Caltech)