子育てと仕事の合間を縫ってのPhD留学準備!自分がどこまでできるか試したかった。

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基本情報

名前:田中耕一(たなか こういち)

所属(現):カリフォルニア大学ロサンゼルス校 材料科学・材料工学科博士課程

最終学位:修士(工学)

年齢:36歳

性別:

 

経歴

2002年4月:東京工業大学無機材料工学科 入学

2006年3月:東京工業大学無機材料工学科 卒業

2006年4月:東京工業大学材料工学専攻 修士課程 入学

2008年3月:東京工業大学材料工学専攻 修士課程 卒業

2008年4月:三菱マテリアル 入社 (中央研究所)

2011年 : 結婚

2012年 :長女誕生

2016年6月:次女誕生

2016年7月:三菱マテリアル 退社

2016年9月:カリフォルニア大学ロサンゼルス校 博士課程 入学

 

インタビュー

留学に至った経緯 ー世界で自分を試してみたかったー

会社をやめてまで、アメリカの博士課程に留学したきっかけは何ですか?

前の会社で、PVD(Physical Vapor Deposition)というコーティング技術でドリル表面に薄膜をつける研究をしていました。当時、そのPVDってサイエンス的にわかっていないよねという話がありまして。会社として、どうパラメーターを変えたら良い薄膜が作れるかというノウハウはあったのですが、それがなぜかはわかっていなくて、ブラックボックスになっていました。

 

そこで、PVDにつかうプラズマを研究することになり、会社の海外派遣制度を使って、アメリカのローレンスバークレー研究所に2014年4月から1年間、プラズマの研究をしている先生の下で研究留学させてもらいました。

 

その1年間、色んな人に会いました。カリフォルニア大学バークレー校で博士課程に所属する日本人や、ビジネススクール助教をしている人など。そういう人たちをみていたら、世界の色んな所から人が集まるアメリカにまた戻ってきて、自分がどこまでできるか試してみたくなりました。2015年に会社に戻ってきたのですが、やはりどこか煮え切らない思いというか、仕事にあまり身が入らないことに気付いてしまいました。仕事をしながら入学準備を進めて、ダメだったら海外は諦めて、国内の大学で社会人博士を目指そうと。

 

会社からしたらふざけんなって感じですけどね(笑)会社を辞めるとき、かなり慰留はありました。ただ、競合他社に行くわけでもなく、純粋に勉強と研究をしたくて留学するので、最後は快く背中を押してくれました。

 

出願先の大学院選び ー自分のバックグラウンドを伸ばす最後のチャンスー

出願する大学院はどうやって選びましたか?

留学先はカリフォルニアにほぼ決めていました。バークレーにいたときの気候も好きでしたし、立ち回り方をある程度知っているという利点もありました。

自分のキャリアのなかで、博士課程での留学がバックグラウンドを伸ばせる最後の機会だったので、それができる場所を選ぶようにしました。

 

会社では真空系での薄膜の蒸着をしていたのですが、真空ってコストパフォーマンスが悪く、エネルギーが非常にかかるんですね。なので、真空のいらない大気圧プラズマをやっている研究室を探していました。スタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレー校にも出願しましたが、大気圧プラズマ関連の研究室を狙っていました。

 

が、声をかけてくれた研究室(今の所属先)は、超高真空っていう真逆のところだったんです(笑)その研究室は、前の会社でやっていた機械系の材料(金属窒化物や炭化物)のみでなく、分野問わず色んな薄膜を作っていました。半導体材料や2次元材料として注目を浴びているhBNやグラフェン、MoS2などのカルコゲナイドもやっています。大気圧でこそありませんが、ここでなら新しく学ぶことも多くあるだろうと思い、今の研究室に決めました。(追記:真空装置から離れることをぼちぼち諦め始めています。。。泣)

 

留学準備 -家族、仕事、勉強の両立ー

会社で働きながらの留学準備はどうでしたか?

時間の捻出が一番大変でした。受験時は長女がいたので、平日は子供が寝た後午後9時から勉強を始めていました。週末は、日曜日の午後だけ勉強に使っていいみたいなルールができまして。その時間でGRETOEFLの勉強をしましたね。(追記:コロナ騒動の今(2020年3月)、まったく同じ生活サイクルで昼は子守り、夜中に博士論文を書いています。。。眠い!)

 

TOEFLバークレー留学前に受けた時の70点から、最終的には96点になりました。 実は96点は出願締め切り後に取りました(笑)2月の末とかだったと思います。合否が出ていようが出ていまいが、とりあえずスコアを送りつけました。出願前の点数は93点でした。正直、TOEFLGREの対策は間に合わなかった感じです。

 

周りに受験しようとした人はいましたか?情報集めはどうしましたか?

周りに同じような境遇の人はいなかったですね。情報はネットで探して、いろんなブログを見ました。社会人向けのものはさすがにありませんでした。

 

推薦状は誰に書いてもらいましたか?企業に務めている人は、上司から推薦状をもらいづらいと聞くのですが。

奨学金は、大学時代の教授2人と、ローレンスバークレー研究所でのアドバイザーからもらいました。今の研究室のボスが博士学生のときのアドバイザーが、そのバークレーの先生と非常に仲のいい人だったので、アカデミックファミリーから推薦してもらった感じですね。

 

留学について家族はどう反応しましたか?

家族はノリノリでした(笑)パークレーから帰ってきた時点で、アメリカの博士課程を受験しようかなと話をしていて、妻はいいんじゃない、カリフォルニア好きだし、と言っていました。英語ペラペラってわけではないけれども、バークレーに一緒に滞在していた時に外国人の友達もできていましたし、楽しんでいたと思います。基本的に外国が好きなんだと思います。

ですが、合格したって話をしたときは「え、本気で言ってんの?」と言われました(笑)応援していたけどぶっちゃけ受からないと思われていたらしいです。 妻は妻で今も楽しくやっています。

両親には合格後に話しました。仕事辞めると話したら「全然いいよ」と。大学院に行きますと言ったら「それもまあいい」と。「どこの大学院に行くの?東工大?」と聞かれて、いやカリフォルアへ行きますと言った途端「はあああ!?」と。ただ、特に反対されたわけではありませんでした。自分がいなくなることよりも、孫がいなくなることが残念だったらしく、それは今でも本当に申し訳ないと思っています。

 

留学生活について -企業勤務経験ありでも、学ぶことが多い博士課程生活ー

留学先での授業はどうですか?

授業は聞いていたほど大変でもなかったです。マスターをとっていたので、必要単位数が12単位分少なく、他の人よりも授業をとる数が少なくてすみました。他の人のように1学期につき3コースでとかを取る必要はなく、あまり無理せず、2つの授業を毎学期取っていました。

 

授業はすごいよくできてるなと思いました。卒業後のためにGPAをキープしないといけないという、ほどほどのプレッシャーがありました。日本での大学時代みたいに60点でいいやってのはなく、必然的に勉強に身が入りました。さらに内容も良かったです。修士卒の社会人からの留学でもかなり勉強になりました。おそらく、英語という別の言語で学び直したので、知識体系を再構築できたんだと思います。

 

意外だったのは、サイエンス系の授業って英語の方が理解しやすいと感じたことですね。少なくともテキストとかを読んでいて、文法からくる主従関係みたいなのが、日本語よりも英語のほうがわかりやすかったです。

 

Qualification exam(博士研究を続けられるかを判断する中間試験)はどうでしたか?

1年目の終わりに授業に関した口頭試験を受けて、2年目の終わりに研究のプレゼンがありました。最初の試験は大変でしたね。相当勉強したと思います。今振り返ると物凄く良い勉強にはなりました。だけどもう二度と受けたくないですね。 

 

二つ目も大変でしたが、自分でやってきたことをまとめて、プレゼンの練習をすればよかっただけだったから、まだ楽でした。

 

留学中に大変だったことはありますか?

TAは大変でしたが、とても楽しかったです。 思ったより学生がみんな話を聞いてくれます。日本からこっちの大学院に来て、やっぱりUCLAの学部生はすごいのかな(なめられたりしないかな。。。)と思っていたのですが、意外とみんな知らないというか、ちゃんとこちらがリードして教えることが出来ました。言語の壁もかなり感じましたし、時々心が折れそうにもなりましたが、振り返ってみて、自分の説明を理解してもらえる楽しさはいつも感じていました。

 

留学してよかったことを教えてください

アメリカの博士課程の恵まれているのは学費がかからないところですね。もし学費がかかってたら、家族もいるのでもう家計が破綻しています。

 

また、今の研究室では、割と自由気ままにというか、やりたいことが比較的自由にできます。プレッシャーは多少ありますが。 例えば、日本の大学にいたときより、分析へのハードルが少ないですね。日本にいたときは、分析をやりたくてもすぐにはやらせてくれないし、このサンプルの何をなぜ調べたいか細かく説明する必要がありました(特にTEMなど)。今も無駄な分析はしないように気を付けてしますが、気を使わずに自分の判断で実験や分析が進められるようになりました。

 

研究以外でよかったことはありましたか?

いろんな日本人に会えたことかなと思います。 キャリアとは関係ないかもしれないですが。日本で働いていたら絶対会えない人たちがいっぱいいました。弁護士の先生、お医者さん、官公庁の方とか。

 

家族とはどう過ごしていますか?

大学院1年目は単身赴任でした。私が渡米したときに、妻は育休を取っており、育休から一年は会社に残って働きたかったようです。妻は私が入学した次の年に会社をやめて渡米しました。なので、最初の年は学期の休みごとに一時帰国していました。

 

その後本格的に合流してから、上の子は現地の小学校、下の子はデイケアに通っています。上の子は今年から日本語補習校に行きます。日本語補習校に入学するのに、子供だけの面接もありました。日本語が話せないハーフの子とか、先生の指示が理解できない子供は落ちるとかもあるらしいですね。学力テストではないので、コミュニケーションができれば大丈夫です。

 

家族を持っている人の留学についてアドバイスはありますか?

会社員の人でアメリカに来たいという人がもしいれば、気にした方がいいのは「子供がこっちに適応できるか」ということかもしれません。最初は少ししんどいかもしれないですね。でも、子供の成長や順応力ってすごいので最終的には大丈夫だとは思いますが。

 

ただ、小学校中学年とか、ある程度日本語の環境で育った子がアメリカに来たときにスムーズに合流できるかについては、若干ハードルが上がるかも知れません。 上の子は企業派遣のときのバークレーにも一緒に行っていたから、そこで慣れていたのもあったと思います。子供のことも研究も、と大変ですが、卒業まであと1年間半頑張ろうと思っています。 

 

卒業後の進路 -アメリカのアカデミアに残るー

卒業後の進路について今の考えを教えてもらえますか?

アメリカでアカデミアに残りたいと思っています。気にしているのは子育てですね。最初は「アメリカにいれば子供も英語を喋れるしいいじゃないか」と思っていましたが、こっち来てみるとやはり不安なところもありまして・・・。上の子は日本語が喋れますが、下の子は英語の方が多いです。上の子は今は6歳、下の子は1歳くらいでアメリカ来て今3歳ですね。単純にバイリンガルだからいいのかって言われると、そうでもないなぁと。日本語の語学力の面ではやはり不足があり、それに、将来的に日本にもし戻りたいとなったときに、日本独特の文化というかそういう適応しづらい部分があるだろうなと思います。それでも、アメリカの方が、日本よりは得るものは多いのかなと前向きに考えています。

 

将来、日本に戻るつもりはないんですか?

日本はあまり考えていないというか、戻るにはまだ早いと思っています。やっぱり年功序列の風土があるので、そのシステムの中で何かできる立場になってから行くのがいいだろうと。それまでは海外で挑戦した方がチャンスがあるかなと思っています。

最終的に日本に戻るかどうかはどっちでもいいです。子供が日本にいたら、帰りたいと思います。

 

アカデミアに残るためにいましていることはありますか?

自分の場合はネットワークづくりですね。年に2,3回は学会に行って、できるだけ色んな人に会っています。指導教員は学会へ行きたいといえばいくらでも行かせてくれます。あとはプロポーザルを書く練習がまだまだ必要だと思います。英語面でかなり不利な部分があるので、これはとにかく練習ですね。

 

編集後記

家族がいるなかでの留学や、企業を辞めてからの留学は、私が経験した修士卒業後の留学とは違った視点や大変さがあり、話を聞いていて新鮮でした。淡々と綴ってはいますが、社会人からの大学院留学の情報はなく、周りに同じ目標を志す人がいない中で、会社と子育ての両方をしながらの受験準備は信念がないとできないものだと思います。辞職し、家族と一緒に日本を離れるリスクを背負ってでも、世界で自分を試してみたいという純粋な気持ちに対し行動できる姿は素敵だと思いました。

Youは何しに海外へ。YouはどうしてPathfinders’運営者に。 -後編-

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2019年12月、Pathfinders’運営メンバー全員が東京に集まって行った座談会の後編です。

前半はこちら↓

pathfinders.hatenablog.com

 

前編の3人に引き続き、以下2人の「海外に赴いたきっかけ」と「この活動に参加することを決めた原体験」をメインに、後半では研究者の仕事の仕方まで話が広がりました。

それでは続きをどうぞ!

 

・あや:2017年夏より職場から派遣され、USCロースクール(LL.M.)に留学。インターンなどを経て2019年夏に帰国し、現在は職場に復帰。

ちひろ:2017年9月末から家族の留学に帯同し、2020年6月末までLA在住。サンタモニカカレッジのプログラム(アントレプレナーシップ専攻)やアートマネジメントのオンラインコースを修了した後、現在は株式会社wevnalの監査役を務める傍ら、バレエ・ダンス界の法務支援に従事している。

 

1回日本から飛び出してみるとたくさん気づくことがあるから、とにかく1回外に出ることの後押しをしたいなと思うようになったかな。(あや)

あや:一番最初に海外に行ったのは、中学2年のとき。サンフランシスコの近くの街に1ヶ月くらい短期留学に行ったんだよね。

 

ちひろ:それは学校の制度とかで?

 

あや:学校ではなくて民間のプログラムなんだけど、半額は自己負担、あとの半分は町が助成してくれるという制度があった。なんで田舎町にそんな制度が当時あったのかはわからないのだけど。笑

 

ちひろ:そのプログラムはどうやって見つけたの?

 

あや:小学校5年生くらいのときに、スチュワーデスのドラマか何かを見て、世界を飛び回るのかっこいい、世界を飛び回るなら英語が必要だ!と思って、家のそばの英会話教室に通い始めたんだ。そんな子供だったから、親がこのプログラムを探してきてくれたんだよね。

そのプログラムに行ってみて、カリフォルニアっていつも晴れているし、みんな笑顔だし、雄大な自然やおおらかな人間性にも触れて、自分の知らない世界や人たちに初めて気づいた感じだった。それで、そのときはまだ何になりたいとか具体的なものはなかったけど、将来海外で働きたいなと漠然と思い始めたんだよね。

それで、大学も英語学科に入って、大学在学中に長期留学をしたいと思っていたのだけど、大学生活が楽しすぎてあっという間にタイミングを逃して就活の時期に入っちゃったんだよね。それで就職までいってしまったんだけど、仕事を始めてからもやっぱり留学に行きたいとの思いは断ち切れなくて。自費でいくか職場の制度を使っていくかというところで、職場の制度で行けそうな目処が立ったから、最終的には職場から機会をいただいてロサンゼルスに留学したんだ。

1年以上海外に暮らすのはこのときが初めてだったから、たくさん気づきもあって価値観も広がり、それまで国内も点々としてきたけど、やっぱり海外に出るとこんなにも考え方が違う人がいるんだって気づいた。あとは、留学生にもたくさん知り合って、特に日本から近い中国や韓国の留学生のガッツを見ていて「すごいな」と思ったし、ロサンゼルスみたいに日本人が多い地域であっても、中国人や韓国人のネットワークはもっとすごいんだということがよくわかった。日本人はもっともっと海外に出ていかないと、取り残されてしまうんじゃないかと危機感を持ったんだよね。

1回日本から飛び出してみるとたくさん気づくことがあるから、とにかく1回外に出ることの後押しをしたいなと思うようになったかな。

そんなときに、ちひろちゃんに会って、「何か留学生を支援する活動をしたいね」と話したのが、この活動を始めるきっかけになった。その後、とある会で他のみんなと出会って留学について話したことが、このメンバーが集まるきっかけになったよね。

 

なつこ:あやさんとちひろさんは何で出会ったんですか?

 

ちひろ:あやちゃんも私もサンタモニカに住んでて、サンタモニカ会やろうよって話になり、何人か当時サンタモニカ在住の日本人で集まってご飯を食べたのが「はじめまして」だったよね。

 

かい:そこで留学生支援やろうって話になったんですか?

 

あや:いや、その時にはそんな話さなかった‥いつ話始めたんだろう。思い出せない。笑 でもその後何回かご飯食べたよね?

 

ちひろ:うん、食べたと思う。笑

 

あや:それでどこかのタイミングで話が盛り上がって、とりあえず一回留学アンケートを取ってみようっていう話になったんだよね。でも、そこに至るまでの経緯みたいなのがそんなにはなかったような‥。2人とも社会人になってから留学に来たという共通項はあるし、何かできることはないかなって話す中で、他の人はどう考えているのか、アンケートで聞いてみようという話になったね。

そうしたら、留学に行って一回海外に出た人はみんな「一度海外に出てみたらいい」って思っていることがよくわかった。

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留学って何がいいの?

かい:海外って何がいいんですかね?

 

あや:やっぱり価値観が広がることじゃないかな。

 

なつこ:いろんな人に会えるしね。

 

さとし:自分が研究業界にいたら一生出会えないような人にたくさん会えたよ。そして、業界は全然違うんだけど、意外と友達になれるよね。笑

 

一同:そうそう。笑

 

あや:いろんな考え方の人がいるし、いろんな考え方があっていいんだと気づけることがまず大きいよね。狭いところにいたら「これしかない」って思っちゃうけど、そんなことないってことに気づける。

 

さとし:一番価値観が広がったのは、自分はイカの研究をしているけど、そのことを話すと、「イカのここが好き」とか「こういうところが嫌い」とか、「イカって足何本?」とか聞かれて、一般の人たちがイカのことをどう思っているのか聞けることがすごく面白い。いろんな人のイカの意見を聞こうと思ったら、SNSでアンケートを取るとか街角インタビューするとかしかないと思うけど、留学に来たら様々なバックグラウンドの人たちから、イカがどう見られているのか聞くことができる。これってすごく価値観が広がるなと思った。

 

あや:自分の中のコアな部分は変わらないと思うんだけど、それがどういう風に花開いていくかは出会いによっても大きく変わると思っていて、海外に出た方がその選択肢の幅や多様性は圧倒的に広がるなと思ってる。いろんな文化や人種の人がいるし、いろんな人同士がミックスされてさらに多様性が広がって面白い意見が聞けるなと。

 

なつこ:アメリカってなんでもかんでもディスカッションじゃないですか。それを続けていると、常に自分の意見を考えているし、それを言葉に出すことがクセになる気がする。人から意見を聞いたときそれに対してどう思うかも考えるし、それを発してみることが増えたなと思うんですよね。日本でももしかしたら色んな考えの人に出会っていたのかもしれないけど、自分自身が考えたり発したりすることを意識していなかったから気づけなかったのかなという気もします。アメリカの文化によって、自分の吸収力も増えて変わったのかなと思います。

 

あや:われわれはみんなロサンゼルスだけど、アメリカの違う場所に行ったらまた感じ方は全然変わるんだろうね。

 

なつこ:あと、この5人がロサンゼルスで出会ったからこの活動に発展しているっていうところありますよね。たぶん日本で出会っていたらこの活動をやるって話にはならなかった気がする。

 

あや:そうそう。ロサンゼルスを選んだのは正解だったと思う。いろんな国の人がいるし、日本人だけでもいろんな人が集まっているから。

 

なつこ:今あやさんはこの活動の代表をやってくれていますけど、そのバイタリティはどこにありますか?

 

あや:「日本人がんばろうぜ!」だと思う‥。

 

一同:熱いね!笑

 

あや:もうちょっと説明すると、周りにいる友達で、将来に不安を持っているけど簡単には人生は変えられないと思っている人たちがいたら、「そんなことないよ。環境は変えられるし、もっといろんな選択肢があるよ。」と伝えたいなと思ってる。

日本にいながら環境に変化を起こすこともできると思うし、海外に出ることはあくまで選択肢の1つだと思ってる。でも、思いっきり環境を変えるのであれば海外ほど変えられるところってないと思うから、タイミングが合うのであれば、ぜひ留学をおすすめしたい。自分の周りの人にいつも笑顔でいてほしいっていうのがあるね。

50年くらい経ったときに、日本人でよかったと思っていたいし、日本がそう思える国であってほしいと思ってる。日本人が、国内でも国外でも日本人として誇らしいと思いながら活躍してほしいなって。

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かい:たまに考えるんですけど、日本の科学力ってどこで判断されるんでしょうね。日本から発信される科学の成果なのか、世界に散らばる日本人が発信する科学の成果なのか。どんなに日本人が出した成果でも、一般的には海外の大学に所属していたらその大学の成果として評価されてしまうと思うんですよね。

 

さとし:僕ら研究者は特許とか研究結果はすべてに大学に帰属することに承諾するっていう誓約書も書かされているよね。

個人の感覚としては、キャリアの中で大学を転々とするものだし、研究成果は自分の名前で発表するから研究と個人が紐付いているという感覚ではある。だから日本に居ようがアメリカにいようが自分の成果であることには変わりない。その一方で,「日本人なのになんで日本じゃ無くて海外で成果を出したの?」と思われる部分もあるとおもう。かい君の考え、面白い!

 

かい:日本で結果を出すことが日本の国力を示すことになるのか、世界で日本人がコミュニティを作って結果を出すことが評価されるのか、考えるんですよね。

 

さとし:日本人が日本の大学で何か結果を出すことに対しては、メディアも取り上げてくれるし、一般の人にも認知度を上げやすい方法だと思うんだよね。他方で、海外のラボで僕たちみたいに働いていると、あまり注目はされないかもしれない。日本のメディアで注目されなくても,海外での日本人の評価は上がると思う。例えば,ラボのメンバーに「日本人ってよく働くな」と思ってもらえて、ちゃんと成果も出せば、後輩たちがアプライするときにも「お、日本人はちゃんとやってくれるから採用しよう」って判断してもらえるという話を聞いた。これは意味があると思う。

 

海外に出ることに怖い気持ちもあったし、何よりキャリアが途切れるのが恐ろしかった。けど、行ってみたら最高だった!(ちひろ

ちひろ:私の場合は、周りに留学経験ある子がたくさんいたんだよね。高校のころも、学年200人のうちロータリーとか使って10人くらいは留学していたし、帰国子女がいたり海外からの留学生が同じクラスにいたり、留学はかなり身近な存在ではあったと思う。

だけど、私自身はというと、クラシックバレエを本気でやってて毎日踊り狂ってたから、バレエなしで留学するなんてことは1ミリも考えたことがなくて。バレエ留学は一瞬考えたけど、結局実力が足りなくて行きたいと思える海外のバレエ学校には行けないとわかったから、具体的に検討することもなく、大学に入っちゃった。

それに、私の場合は下からエスカレーターで大学まで行ってしまったから、受験英語すらやってなくて。大学院受験をするときも、とにかくTOEICの点数が必要ない大学院を探しに探して選んだくらい。笑

仕事を始めてからも、完全に国内の仕事をしてたから、海外留学の必要性を感じたことも一切なく。その後、企業の法務部に入ったときに、留学のチャンスが自分に巡ってきて、ここで急に留学が自分ごとになったんだよね。ただ、ここまで英語を全くやってこなかったツケをここで払わされて、本当に本当に大変で‥。結局仕事とTOEFL受験の両立ができずに倒れちゃって。

それで自分自身が会社の留学制度を使って留学に行くことはその時点であきらめたんだけど、そうしたら今度は家族が留学に行くことになるという…。だから、私の場合は、一度も自発的に留学に行こうと思ったことはなくて、会社から言われて、とか家族が行くから、とかすべて外的要因で留学が現実化した点がみんなとは全然違うよね。

しかも、家族が留学するから「ついて行くか否か」という選択を迫られたときも、当初私は全然行きたくなくて(笑)ちょうど企業の法務部に転職して3年くらい経ったところだったんだけど、やっと現場レベルのことは自分でできるようになってきて、経営層に対してどう法務支援をしていくのかを考える案件にアサインしてもらえるようになって、自分自身の視座も上がり始めて楽しくなってきたところだったんだよね。

それに、みんなみたいに短期で海外に行ってみて開眼するような経験もなかったから、海外に出ることに怖い気持ちもあったし、何よりキャリアが途切れるのが恐ろしかった。

 

なつこ:えー意外!逆だと思ってた!

 

ちひろ:今の私からは信じられないよね(笑)でも当時はそんな感じで、結論出すぎりぎりのタイミングまで、「行きたくない!」ってずっと騒いでた。

でも、会社の上司は、「期間限定なんだから行ってきたらいいじゃない。」「嫌になったら帰ってきたらいいんだから。」って言ってくれてね。

その言葉もあって、最終的には、一緒に行くと決めたんだけど、とにかくキャリアに穴ができないように何かしないと、という脅迫観念に駆られて、家族の留学計画に影響が出ない範囲でできるカレッジ留学をすることに決めたんだ。

で、行ってみたらめちゃ楽しかった(笑)

 

一同:(笑)

 

ちひろ:特に、International Businessっていう科目がとても面白くて。その授業は、社会構造や政治、経済・税金の仕組みなどいろいろな観点から世界の国や企業を比較してみるというものだったんだけど、とにかく日本の登場回数が多かったんだよね。

高度経済成長期のときにこんなに頑張ってこれだけ成長した、とかカイゼンやJust in Systemでトヨタはこんなに成長したとか良い意味で取り上げられることもあれば、バブルがはじけてから今までは元気がない、人口減少してるしこのまま衰退フェーズだといったマイナスの事象も沢山取り上げられてた。

知っていることも多かったんだけど、それが世界でどう評価されているかは考えたことがなかったから、「日本って世界から見ても注目してもらえることやってきた国なんだ。私はそんな国に生まれたんだ。」という事実に初めて気づいたんだ。それは、やっぱり視野が広がる経験だったと思う。

あと、自分が学生の間に留学していたら、こんなに気づくことはなかったんだろうなとも思ったの。私の場合は日本での社会経験があって、日本社会のシステムについてはある程度わかっていたから、カレッジの授業の吸収力が上がった気がした。だから、もっと社会人留学というキャリア選択を広められたらいいなって考えるようになった。

もう1つ面白かった授業は、起業家のマインドを学ぶ授業で、5人のグループで5ドルで何でも良いからビジネスをやってみる(参照:「パートナーへの帯同でキャリアを諦める必要はない-自分にしかできない道を求めて-」)という課題を通じて、とにかくなんでも行動を起こしてみれば、気付きや学びがあるということにも気づけたよ。

それで、その授業の最終課題が自分で新しいビジネスを考えて事業計画を作ってレポートにまとめるという内容だったの。どんなビジネスにしようかなと考えたときに、せっかく社会人留学を広げられたらなと思ったのであれば留学に関連するビジネスを題材にしようと思ったんだよね。それで、以前あやちゃんとは留学ビジネスの話もしていたから、改めて連絡してFacebookを通じてアンケートを取ることにしたんだ。その結果は、最終レポートにも入れた気がする。

でも、あやちゃんとの会話は、アンケートを取ったきり、2人がロサンゼルスを離れたこともあって一旦止まっちゃって。そのあとは、みんながあやちゃんと知り合ったことをきっかけに、あやちゃんから誘ってもらって今に至るよ。

 

なつこ:きっかけがカレッジのレポートだったとは!

 

ちひろ:たぶんカレッジに行かなかったら、「とりあえずアンケートを取ってみよう」とアクションを起こすことも考えなかったと思うんだけど、何でも動いてみたら何かしらの結果につながるということに気づけていたから、まずはやってみようと思えた気がする。

日本にいたら、社会に出ると周囲で知り合いになる人もなんとなく経歴の似た人になってくるし、なんとなくこの先の人生も決まっているような気がしていて、それは当たり前だと思っていたのね。でも、全然違うことをちょっとやってみたら、こうやってみんなとも繋がれたし、Pathfinders’として形にもなったし、「これって人生の幅が広がるし面白いじゃん!」ってことに気づいて。「みんなももっとやったらいいのに!」って思うようになった。

特に、私みたいに家族の留学きっかけで留学に行く人って、アイデンティティ・クライシスに陥ったり、海外の慣れない場所で生活していくだけでいっぱいいっぱいになってマイナスな気持ちでいっぱいの人ってきっと実は沢山いると思うのね。でもせっかく海外に来たのであれば、自分が主たる留学者でなくても、早くマイナスの気持ちから抜け出して、その後のキャリアや自分の人生にプラスになることって何だろうって前向きに考えた方が絶対に良いから、今悩んでいる留学帯同者へのアプローチとかもできたらいいなと思ってる。

あと、ちょっと視点がずれるけど、ロサンゼルスって日本人も沢山いるし、日本語だけ使って日本人のコミュニティだけで生きていくことも容易だから、ロサンゼルスに行っても新しいことを吸収できずに帰っていく人も相当数いると思うんだよね。吸収できるか否かって結構自分次第なところもあるし。留学の時間を最大限活用しないってすごいもったいないことだから、その点に関して何かできないかなぁという思いもあるかな。

 

さとし:留学すること自体が目的になっている人っているよね。

 

ちひろ:そうそう。結局留学って手段でしかないから、留学で何を得てくるのかという目的設定はとても重要だと思ってる。その目的設定があるか否かで、アンテナの張り方が変わって、得られるものの量も質もすごく変わると思うから。留学って本当にピンきりだと思うけど、意味のある良い留学のサポートができたらいいなって考えているよ。

 

なつこ:2人がアンケートを取っていて、すでにアクションを起こしていたということは、この取組みに参加しようって思える信頼につながった気がします。アンケートを実施すること自体は、本当に簡単なことだけど、その一歩の行動を起こせるのは一握りだと思っていて。そういう人がいるなら何かできるかも、と思いました。

 

あや:あのアンケートのフリーコメント欄にたくさん回答をいただいたのは嬉しかったし、何かやろうと思う原動力になったよね。

 

ちひろ:そうそう!フリーコメントを付けようって言ってくれたのはあやちゃんだったけど、本当に入れておいてよかった!アンケートをやってみてわかったのは、圧倒的に留学に行った経験のある人の方が回答してくれて、多くの人がもっと留学する人が増えてほしいっていう強い思いを持ってること。一方で、留学に行っていない人はそもそも回答してくれていない人がほとんどで、留学した人としていない人とでの温度差をすごく感じたな。

 

さとし:いわゆる強化説だとおもう。一度,一歩踏み出した人はどんどん次の一歩を踏み出せるけど、まだ一歩を踏み出していない人はずっと踏み出せないままになるという。だから、どうにか一歩を踏み出すことが重要だと思う。そうすれば、あとは自然にどんどん踏み出していくだろうし。留学に行く人は皆,「価値観が広がる」というけど、何がきっかけで広がるのかを切り口に聞いてみるのは面白いかもね。

 

なつこ:ちひろさんは、カレッジに行ったあとは、「こういうことしてみたい」とか「海外にもっと住みたい」とか新たな思いはありましたか?

 

ちひろ:それでいうと、ロサンゼルスに行ってよかったことの1つとして、自分の人生を考える時間ができたというのがあって。日本にいる時は、毎日目の前の仕事をこなすことで精一杯で、自分の人生を考える時間なんてなかったんだよね。でも、こっちに来たら圧倒的に時間はあるから、「自分の人生って何だろう」「この後何をやっていきたいんだろう」「どうやって社会に貢献していきたいんだろう」とか、ノートにたくさん書いて。特にね、雨の降らないロサンゼルスで雨が降ると気分が落ちるから、「私ここで何やっているんだろう…」って思ってね(笑)そんな日にひたすら自分に問い続けたり。

その結果、私の場合は「やっぱり自分にしかないバレエの経験を活かそう」と思って、日本のバレエ団に連絡してみるっていう一歩も踏み出してみた。その結果、どんどん話が広がって、今は一時帰国して打ち合わせしたりしているくらいだから、一歩踏み出すことの大切さは実感しているかも。

一歩踏み出すって自分が動くだけだから何もリスクがないし、ダメ元でうまく行ったらラッキーくらいに思ってやれば何も失うものもないって思えるようになって、一歩を出すことのハードルはすごく下がった気がする。

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あや:社会人で時間ができるというのは本当に大きいよね。

 

かい:それは、アメリカに来たから時間ができたっていうことですか?

 

あや:いや、仕事から離れて学生になったということが大きいかな。

 

さとし:もし日本で会社を辞めて国内で大学院に入ったとしたら、会う人ががらっと変わるわけではなさそうだよね。それまでとコミュニティは変わらないだろうから。そうすると、海外に来ることで変わる点も大きいだろうね。

 

なつこ:あと、アメリカの大学は夏休みが日本に比べて圧倒的に長いので、もちろん遊びにも行くんですけど、考える時間が増えたなぁと思いました。仕事をしていると心の余裕もないし。

 

さとし:留学、いいこと尽くしだね!

 

あや:自分を見つめ直す機会ができることは、すごく意味があると思う。

 

なつこ:研究者の場合はどんな変化がありますか?

 

さとし:日本の大学っていることに意味があるんだよね。

 

ちひろ:日本の会社と一緒!

 

さとし:そう。朝9時から夜8時くらいまでいることね。「あいついつも長い時間頑張っているな」と思われると、たとえ業績がなくても、どうにかしてやるか、という感じになる。

 

かい:海外ではないですよね。時間かけて何も業績が上がってなかったら、できない奴だなと思われます。業績がすべてです。

 

さとし:週1の進捗を報告する会議で何も発表できなかったら、いないものとして扱われて議論にも全く参加できないし。何かしらデータとか結果を出して発言しないと。日本だったら参加だけしていれば良いけど。出席点みたいな評価はあると思う。

 

なつこ:大学の授業も同じですよね。成績評価にも発言率が含まれてますし。 みんなが反応してくれるし嬉しいんですけどね。研究の世界の評価はどこで行われているんですか?

 

さとし:プロジェクトは研究責任者が計画を決めて申請し、採択されればプロジェクトの資金を出してもらえる。あとは、申請書に書いた計画どおりプロジェクトを進めて、その成果が論文や本ということになるね。その成果物がないと、せっかく資金を使ってやったのに、何も社会に還元できていないという評価になる。学会発表ではだめで、複数人の査読を経て世に出す論文にしないと意味がない世界なんだ。その計画を予定より早めて成果を出したりすると、「あいつすごい」という評価になったりするとおもうよ。

 

かい:あとは、良いものが必ず評価される世界ではないです。良いものを書いても、良い先生から出していなければ全く見てもらえません。高名な先生の元から出せば、ランクの高いジャーナルに載りやすいとかがあるんです。逆に、大して良いものでなくても、有名な先生の名前があれば、とりあえずみんな論文は見るということもあります。なので、留学で良い環境にいられるかということもとても大事です。

 

なつこ:日本にいたら、今言っているジャーナルとかには載せられないものなの?

 

かい:世界でもかなり有名な教授の研究室にいない限り、難しいと思います。 

 

なつこ:私の専門の公共政策なんかは、社会のシステムが違うから、アメリカで学んだことをそのまま日本で利用することは難しいんだけど、研究の世界は世界がフラットだよね。だから、留学すると、世界の幅がストレートに広がりますよね。

 

ちひろ:研究者も、海外に出ない理由はないね!

 

編集後記

前編・後編通して、私たちの留学したきっかけやPathfinders’の活動への思いをお伝えさせていただきました。

みんなバックグラウンドはばらばらですが、留学の良さを伝えたいという思いは同じです。少しでも多くの方にお届けできれば良いなと思います。

 

質問やご興味のあることがありましたら、Facebookのメッセージや問合せのリンクからいつでもご連絡ください!

2回の留学と幾度の苦難を超えてなお燃え続ける航空宇宙分野への情熱

田尻 和也さん

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基本情報

名前:田尻 和也

所属(現):Michigan Technological University

最終学位:Ph.D

性別:男

出身地:熊本

経歴

東京大学工学部航空宇宙工学科卒業

計測器メーカ勤務後、退職

1999-2001 Georgia Institute of Technology, School of Aerospace Engineering 修士課程

日産自動車総合研究所勤務後(2年半)、退職

2005-2008 The Pennsylvania State University, Department of Mechanical Engineering 博士課程

2008-2010 Argonne National Laboratory ポスドク

2010-2017 Michigan Technological University, Department of Mechanical Engineering-Engineering Mechanics にて Assistant Professor

2017-現在 Michigan Technological University, Department of Mechanical Engineering-Engineering Mechanics にて Associate Professor

 

インタビュー

退職からのジョージア工科大学修士課程への留学

会社を辞めて留学に至った経緯 -航空宇宙分野での留学の夢を諦めきれなかったー

田尻先生は、会社を辞めてからの学位留学を修士と博士で二度、別の大学でしていらっしゃいます。最初は、日本の学部卒業後、日本の計測メーカーに就職した後に、ジョージア工科大学の修士課程へ入学しています。仕事を辞めてまで留学に至った動機を教えていただけますか?

留学を考えた最初の理由は、航空宇宙の分野だとアメリカが強いことにあります。大学入学時点でぼんやりと留学したいという気持ちはありました。 その頃から情報は集めていたのですが、学部時代は学校に行かずにバイトばかりやっていまして(笑)。卒業が遅れたんですよ。結果、新卒として就職活動ができませんでした。当時の指導教官の紹介で、小さい計測器メーカーに入りました。
就職後も留学は頭の片隅にはありました。留学により自分のキャリアアップにつながるかなと、一縷の望みという思いはありました。

 

留学への準備をし始めるきっかけはありましたか?

実際に留学しようと決めたのは、出張で渡米した時に、カリフォルニア工科大学へ寄ったことがきっかけです。その時、Graduate student のパンフレットをもらいました。こういう授業があるのか、面白そうだなと、頑張ってみようかなと留学への思いが再熱したのを覚えています。

それから2年くらいで留学準備をして修士の学位留学へ至りました。

 

学校選択の基準 ー自費留学が可能な公立校へー

留学先の学校選択には何を参考にしましたか?

アルクが載せていた大学院の航空宇宙分野のランキングを参考にしました。当時は全部自費だったので、授業料の高い私立を除いて、公立の大学院を上から順番に三つ四つくらい選んで受験をしました。

一応、そのランキングで一位だったカリフォルニア工科大学も、私立でしたが受験しました。そこは落ちてしまったのですが、公立で第一志望だったジョージア工科大学は合格することができました。

 

留学準備での苦労 ー推薦状と自費留学のためのお金の工面ー

留学準備で大変だったことはなんでしたか?

一番大変だったのは推薦状3通を集めることでした。日本の大学から推薦状を書いてもらえるのは指導教員からのみでした。あとの2通は会社の上司や仕事で知り合った人に書いてもらいました。推薦状は自分のことをよく知っている人に書いてもらえ、とはよく言われていますが、私の場合はあまりそうではなかったですね。

 

また、修士課程は自費だったので、そのお金の工面に苦労しました。私は結局留学1年分の金額しか用意できませんでした。ですので、普通は2年で修士を終了するところを、1年で終えるか、1年で実力を教授に認めてもらって、研究室でRA (Research Assistant)として給料をもらいながら研究・勉強しようというつもりでした。

 

大学院生活 -通常の半分の期間での卒業要件の終了とRAでの1年間-

留学1年分の準備金で通常2年間の修士課程に入学して、ジョージア工科大学での留学生活はどうでしたか?

非常に忙しかったです。1年間で終わるよう授業を履修し、研究もこなしました。毎日深夜1時くらいまで研究室にいて、翌日朝9時の授業に出るような生活です。この時に頑張れて、これだけできるんだ、と自分のキャパシティを確認できたのが、それからの自分の自信にもつながっています。

 

私は1年目は英会話がうまくできなかったのもあり、それをハードワークで補うよう努力しました。理系なので数式を見せればコミュニケーションはとれたのです。そして、春学期くらいに(アメリカの大学は秋から始まります)いい研究結果が出てきました。それもあって、翌年度の秋からRAとしてもう1年残るか、と教授に言ってもらえました。その時点で卒業することはできましたが、RAとしてお金をもらいながら研究できるといことで、もう1年残ることにしました。この後も博士課程に残るつもりだったのですが、一難ありまして、、、これが次の博士課程での留学につながっていきます。

 

大変気になりますね(笑)その話は次の博士再挑戦編でのインタビューで話していただきます。それに移る前に、ジョージア大学での留学中にやってよかったことや得られたことを教えていただけますか?

勉強と研究に没頭する時間がもてたことです。これは本来、学部の時にあるべきだったと思うのですが、私の場合はありませんでした。

留学したから得られたことは、いろんなエリアの知り合いができたことです。今、大学の教授として研究予算を獲得するために色んな会社の人と話したり交渉したりすることがあります。その時に知り合いがいると、話題として最初のアイスブレイクになります。

 

留学による変化 -キャリアアップと積極性-

ジョージア工科大学の修士課程の留学の結果、キャリアはどう変わりました?

留学の前後で、零細企業から大企業(日産自動車総合研究所)に変わりました。留学前と比べて、同い年の人と同じくらいの年収には上がりました。日本の企業は、年齢でポジションや給料を決めるので、中途採用枠として年齢相当のポジションと給料になったのだと思います。

 

留学を通して得られたことを教えていただけますか?

授業とかセミナーを聴講しているとき、躊躇せずに自然と質問をできるようになりました。アメリカは授業中も学生がかなり質問をします。その環境にいたからこそ、基本的なことでも質問できるようになりました。これは様々な場面でポジティブに働いてると思います。相手や上司からの印象もよくなると思います。

実際、自分が大学で授業を教えていて、基本的な質問をしてくる学生も多くいます。そういう風に質問してくれるのは教える側もかなり助かるんです。一人が聞くということはほかの人もわからないということなので、学生の授業の理解度を測る指標にもなります。

 

アメリ修士終了後の就職から博士課程への再挑戦

帰国後に博士課程への留学の動機 -個人の実力で勝負できる場所への再挑戦ー

日産への就職後、2年半で仕事を辞めてペンシルバニア州立大学の博士課程へ入学されています。この2回目の留学のきっかけを教えていただけますか?

留学後、日産で働いて気づいたことがありました。企業で働いている人って、個人の名前よりも会社の名前が見られることが多いのです。研究者としての個人個人の顔が見えることは多くはありません。また、他の会社の人とやり取りをする時に、相手が下手にでるのは私をみているのではなく、会社の名前をみているという実感がありました。私はそれが嫌に思えたのです。 自分の名前と実力で勝負できる世界にいきたいと強く感じました。

 

そして実は、ジョージア工科大学でRAをしていた当時、博士課程の進学への話がでていました。ここで一難あったのです。修士課程から博士課程へ進学するときに、Qualify examという試験があります。ジョージア工科大学の場合は、授業に関して教授と2対1で行われる口頭試験が3科目分ありました。当時は。内容より何より英語で苦戦してしまい、結局不合格でした。その時にまたアメリカに戻って再挑戦してやる、という気持ちが残っていたのも博士課程進学へ繋がっています。

 

再挑戦の博士留学の大学選び -共同研究先の先生とのコネクションー

再挑戦としての博士留学の大学はどのように選びましたか?

日産で働いているときに、私が燃料電池に関する共同研究をペンシルバニア州立大学と始めていました。そこの先生に博士課程の学生としてRA付きで受け入れてもらいました。

なので、日産との共同研究のプロジェクトを自分が行う形で、その研究室に燃料電池の知識やノウハウを持ち込んだことも多かったと思います。

 

企業派遣という形は取らなかったのですね。

企業派遣の場合は会社へ戻らなければいけません。企業へ戻るつもりはなかったので、会社を辞めて博士課程への進学という道を選びました。

 

2年半で日産を辞めていますが一悶着とかありませんでしたか?

上司はすごい理解ある人でした。就職して、2, 3ヶ月くらいの割と早い段階で、上司には留学したいという気持ちを打ち明けていました。上司もそんなに反対する雰囲気ではありませんでしたね。推薦状も書いてくださいました。

そのときはジョージア工科大学の先生からも推薦状もらえましたし、一度留学していたこともああって留学準備には余裕が持てました。

 

家族の説得をする必要はありましたか?

親は私のキャリアについてあまり口出ししませんでした。ジョージア工科大学で知り合った日本人の方と結婚していたのですが、妻はジョージア工科大学で修士終了後、アーカンソー大学でスタッフの仕事をしていました。そこで、私が博士課程に受験するときに、同じ大学の博士課程に財政支援付きで合格したらそこに行こうという話をしていました。二人とも同じ大学へというのは難しかったと思いますが、見事に二人でペンシルバニア州立大学からの合格をもらい進学しました。

 

2度目の大学院生活 -3年半での博士課程終了-

ジョージア工科大学での修士課程から考えて2度目のペンシルバニア州立大学博士課程での生活について教えていただけますか?

ジョージア工科大学修士課程での経験と日産で学んだ技術がうまく組み合わさったことで順調に進み、3年半で博士課程を修了することができました。これは、アメリカの博士課程で最初2年間修士の学生と一緒に授業を履修し、残りの3年間で研究をするのと一緒だと思います。最初の2年間は学びながらアメリカの環境に適応して、後3年間は研究をする。 私の場合は、内容を理解する2年間とアメリカの環境を経験する2年間が二つの場所であっただけでした。

余裕があったおかげで、休みの日は遊びに行くこともできましたし、博士課程の最後1年間は子供もいました。普通に朝行って夕方帰ってくるという生活をしていました。

 

留学中やっていてよかったこと ー次のキャリアを見据えたネットワーク形成ー

博士課程での留学中に、将来を見据えてやっていたことを教えていただけますか?

私は博士課程入学時から、アメリカの大学で教授になるつもりでいました。出願時に提出したStatement of Purpose (志願理由書)にもそう書いた記憶があります。そのために、学会で同じ分野の知り合いを増やすよう行動していました。また、所属していた研究室が、日本の企業と共同研究を多くしていました。日本の人が研究室に来た時に、色々と案内や手伝いは積極的にしていました。ファカルティメンバーになったときに、 そのコネを使ってプロジェクトをもらおうと思っていたのです。その時から明確に意思はありました。

 

博士留学で変わったこと ーアメリカの国立研究所への就職ー

博士留学後のための仕事探しについて教えていただけますか?

教授のポジションへ応募していましたが、卒業の2,3か月前に全て落ちてしまいました。落ち込みましたが、仕方ないと思いポスドクの応募もし始めました。いくつかの大学からオファーをもらうことができましたが、第一志望であったアメリカの国立研究所であるArgonne National Laboratoryの結果が出るまで全て保留にしていました。正式にArgonne National Laboratoryからオファーをもらえたのは、博士論文の研究発表を終えた2か月後の8月くらいでした。それからいろんな手続きを2ヶ月くらいで終えて、実際に働き始めたのたのは11月からでした。

 

Argonne National Laboratoryへの応募からオファーについて教えていただけますか?

普通に公募が出ていまして、それに関して、私の指導教官にいい人がいたら紹介してくれという連絡が直接来ていました。それについて、研究室のみんなに回したメールを見て、応募しました。情報を知ったのは指導教官からですが、応募は普通に公募に対しました。On-site interviewはなく、Phone-interviewが最終面接でした。

 

Argonne National Laboratoryへ行くことにした理由を教えていただけますか?

国立研究所は名声もあるし、給料もいいからです。大学でのポスドクの2倍くらいの給料はありますし、箔がつきます。研究環境も素晴らしいです。

実際、今の教授のポジションでの選考でも国立研究所にいたというのは結構プラスになったと思います。今、採用する側にいるからわかるのですが、その視点から見て、国立研究所での経験は目を引きます。もう一点はネットワークです。国立研究所から来ると、国立研究所の人との知り合いが多くいるので、国立研究所と共同研究し予算を獲得できるという期待があります。

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2つの留学を通して得られたことと、これから

2つの留学を通して得られたこと ー指導方法は教えてもらうものではなく見るものー

田尻先生は修士と博士を別々の場所で修了しました。5、6年間同じ大学で博士課程で学ぶことと比較してよかったことがあれば教えていただけますか?

修士と博士を別のとこで終えるのは面白いと思います。別の場所で違った研究のやり方を見て経験できます。特に将来、教授職に就きたいなら、色んな指導の方法を見ることは重要だと思います。そういう視点は教授として必要だと思います。

 

教授になった時・TA(Teaching Assistant)をやる時に、どういう風に授業をやるかというのは教えてくれます。 PhD やポスドクでどういう風に研究をするかというのも教えてくれます。ただ、どうやって研究指導をするかというのは誰も教えてくれません。それについて教えらえる経験がないままにAssitatnt Professorになって学生を指導するわけです。 日本なら、上に教授がいて准教授いるので、指導する方法を助教の時に見れるのですが、アメリカだとそうはいきません。Assistant professorになる前にいろんなやり方を見てくるのは大事だと思います。修士・博士で絶対に場所を移せ、というわけではないのですが、移すことにもメリットはあると思います。

 

将来どうしたいか ー航空宇宙の研究の再開ー

これからの目標・プランについて教えていただけますか?

いま徐々に燃料電池から航空宇宙に関する研究に分野をずらしています。本当は、博士課程の時に航空宇宙の研究をやりたかったのですが、航空宇宙系の分野で財政支援付きで合格をくれたところがありませんでした。その時ある先生に言われたのが、

「大学の教授になれば自分の好きなことができる。 だからそれまで、とりあえず何でもいいからお金をもらえるところで博士を取れ。そして教授になって好きな研究に戻れ」

 

という言葉でした。そこで長期的な視点を持って、燃料電池で博士の学位を取って、燃料電池ポスドクの仕事をして、燃料電池で今の教授のポジションを得て、好きなことができるようになった今、航空宇宙関係の研究を増やしつつあります。将来どうしたいかというのは、もう少し航空宇宙の研究を広げていけたらいいかなと思います。

 

これから留学を目指す人へのアドバイス -興味があればとりあえずやってみようー

アメリカの大学の教授の立場として、留学したい人へアドバイスいただけますか?

アメリカで研究したい学生は、自分でお金を用意して、教授へしっかり研究を理解をしていることを伝えるように連絡すれば、研究できる可能性は低くはないと思います。

私のところによく、留学したいんですというメールが、特にイランから来るのですが、どれだけ優秀でもお金がないときは今お金ないから受け入れられないって返信を書くしかありません。お金を自分で持ってきてくれる学生は、あまり優秀じゃなくても喜んで受け入れます。

 

それは日本人でもですか?

国は問わないです。お金持ってきて、研究をしてくれるのは、こちらにとってはマイナスなことは何もないですから。

 

お金を持ってるか持ってない以外で特に見るところを教えていただけますか?

もちろん成績や論文の実績があれば最低限見ます。あと、大抵の学生は同じ文面のメールを何十、何百の人に送ってると思います。そういうメールは見た瞬間に無視します。ちゃんとその先生の名前を入れて。研究内容の入れて少しでも突っ込んでるようなことを書いてると印象は良くなります。私の研究室のHPでは、Transport phenomenaとかEnergy conversion とか書いているのですが、メールで、Transport phenomena、Energy conversionとそのまま書いてるだけだとHPで見たことを写しただけだと思うので、少し違ったことが書いてあるとちゃんと調べていると思って印象はよくなると思います。

 

そういう研究を理解しているメールは全体の何%くらいですか?

数%かな。 なのでちゃんと書いてたら印象は良くなると思います。

また、自分の指導教官の知り合いの先生にコンタクトするとかだと印象は違うと思います。信頼がありますし、その先生にこの学生はどうなのか?と突っ込んだ話も聞けますから。

 

最後に留学に一歩踏み出せない人へ一言いただけますか?

興味があればやってみたほうがいいです。とりあえず一回飛び込んでみてダメだったらまた挑戦すればいい。年齢は関係ありません。アメリカの大学院にはそういう人は沢山いる。

日本のシステムがダメだったらまたやり直すというのはあんまり認めてないので、躊躇する気持ちは分かります。ですが、長い目で見て、ダメだったらまたやり直せると思って挑戦すれば道は切り開けると思います。

 

編集後記

田尻先生とはアメリカでの学会にて知り合いました。学会先で、私も希望しているアカデミアの道について話してくださり、その話を少しでも多くの人に届けたいという思いで、今回インタビュー記事への協力をお願いしました。紆余曲折の結果、学部時代からやりたかった航空宇宙の研究に取り組める環境を築いた田尻先生。長期的な視点をもって諦めなければ道は切り開けるというのを強く感じさせてくれました。

 

インタビュアー:Kai Narita

Youは何しに海外へ。YouはどうしてPathfinders’運営者に。 -前編-

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2019年12月、Pathfinders’を運営するRef.のメンバー全員が東京に集まりました。今は、東京にいるメンバーとLAに残るメンバーが半々くらいなので、みなで東京で集まるのは貴重な機会!(東京で集まるのは初めてなので不思議な気分でした。)

 

ということで、せっかくなので、座談会を開催。

「海外に赴いたきっかけ」と「この活動に参加することを決めた原体験」を1人ずつ話していくことにしました。

今は一緒の方向性を持って活動をしていますが、ここに行き着くバックグラウンドや過程は5人ともばらばら。Pathfinders’を見てくださっている皆さんに、「留学ってこんな小さなきっかけから考え始めるんだ!」とか、「周りに留学を考えている人は少ないけれど、このメンバーは自分と似てる!」など気づいてもらえたら嬉しいなと思い、記事にすることにしました。

もし、もっと私たちの話を聞いてみたいと思ってくださる方がいらっしゃったら、Facebookのメッセージや問合せのリンクからいつでもご連絡ください。

この記事は、前編として、以下の3人のメンバーの話をお伝えしていきます。

・かい  :東京工業大学の学部、修士を終えたのちに、2016年からカリフォルニア工科大学(CALTEC)の材料科学専攻の博士過程に留学。

 ・さとし:2017年11月からカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の進化生態学部にアオリイカの資源生態研究(ポスドク)のため留学し、2019年11月に帰国。

・なつこ:新卒で5年ほど勤めたコンサルティング会社を辞め、2017年から南カリフォルニア大学(USC)公共政策大学院の修士課程に留学し、2019年に卒業。その後現地のITスタートアップで少し働き、2019年9月に帰国。現在は都内監査法人勤務。

 

マレーシアに行って「海外って意外といけるな」と思いました。いろんなプログラムに無料で参加できる良い時期に海外に興味を持ちました。(かい)

かい:僕は今アメリカのカリフォルニア工科大学の博士課程の4年目になりますが、これが初めての長期留学です。もともと自分は21歳まで海外に行ったことがなくて。高校まで青森で過ごして、東京工業大学に入学して初めて東京に来て、それから学部3年生まで海外にも行ったことがありませんでした。この留学に至ったきっかけは、初めての海外経験からでした。学部3年のときに、クラスでグループごとに実験と発表を行い、一番良い発表をしたグループがマレーシアで発表できる機会があり、そこで優勝してマレーシアに行ったのが初めての海外経験です。英語は得意ではなかったけど、マレーシアで発表するために100時間くらい練習をして、発表もなんとかできて自信になり、海外意外といけるな、と思えるようになりました。

 

ちょうどそのころ、2013年〜2014年ごろは日本で「留学プログラムを増やそう」という機運が高まったときでした、様々な留学プログラムがありつつ、まだ応募する人が少なかった。手を挙げれば簡単に留学プログラムに行ける時期でもありました。なので、マレーシアに行ったあと、毎学期ごとくらいの頻度で留学プログラムに参加していました。

 

その1つで、東工大に留学で来ていた韓国人と一緒に、イギリスのケンブリッジ大学へ行く、サイエンスコミュニケーションのプログラムに1週間ほど参加したのですが、その韓国人が修士ケンブリッジに行きたいと言っているのを聞き、驚きました。大学学部で日本に留学したうえ修士は別の国にさらに留学しようとするなんて、なんてフットワークが軽いんだろうと思って。そして、海外で学位を取ることはそんなに気を張らなくてもできるのかもと思えた瞬間でもありました。それまでは、博士を日本で取ろうと思っていましたが、海外で取るのもありかなと考え始め、そこから留学先探して頑張って頑張って…今に至ります。

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ちひろ:高校生の間は、「いつか留学に行くかもな」とか考えたことはあったの?

 

かい:まったく考えていなかったです。大学で東京に行くこと自体が、自分にとっては海外に行くようなものだったから、海外に行くことは頭になかったです。

 

ちひろ:マレーシアに行ったことは意識が海外に向く大きなきっかけになったと思うけど、マレーシアに行ってみてどんなことを思ったの?「海外って面白いな」という感覚?

 

かい:面白いというよりは、意外と自分もいけるなっていう感覚でした。よく「海外留学はすごい」と言われるし、そういうイメージもあるけど、何がすごいのかよくわからないじゃないですか。でも、実際に行ってみたら、「なんだ意外といけるな」と思ったんです。それに、当時の留学プログラムって多くが無料で行けたんですよ。さっき話したケンブリッジのプログラムも渡航費や滞在費も補助されていました。

 

一同:それってすごくない!?そんなのあるの??

 

かい:みんなが応募しないから知らないだけであるんですよ。1週間イギリスに滞在するんですけど、ずっとケンブリッジ大学で授業を受けるのではなく、博物館の学芸員の方の話を聞くなどのフィールドワークもあったりしました。ちょうどそういうプログラムが始まったばかりの時期で、前例もないですしみんなあまり行きたがらなかったんですね。なので、手さえ挙げれば簡単に行くことができる、というちょうど良いタイミングでした。

 

さとし:理系は結構あると思います。学会に行きたいとか、共同研究をしたい、とか一定の目的を持って行く留学プログラムが多いイメージで、それなりにお金も出してくれるんですよ。

 

なつこ:それは研究室とかがお金出してくれるってことなの?

 

かい:いえ、学部です。国が各大学に留学支援のためにお金を出していて、これを使って学部が提供している感じですかね。

 

なつこ:それは文系にはない気がするな。国際法関連とかの分野ならあるかもしれないけど、すごく限られてそう。

 

後輩が自分と同じつらい思いをしないために、何かできないかって考えているときにみなさんに出会いました。(かい)

かい:この活動を始めた原体験は、自分が留学準備をするのがめちゃくちゃ大変だったことにあります。全く情報がないわけではなく、先輩方やウェブの情報は少しあるんですけど、Googleで「留学 理系」で検索するところから始まって、志望理由書はどうやって書くのかな、など1つ1つすべて大変でした。結構つらいことも多かったですが、周りに留学する人も少なく、共有できずに孤独でした。なので、今後後輩が同じように留学したいと思ったときに、同じ気持ちにさせたくないな、何かできることないかなと思っていたときに、みなさんに出会いました。あと、米国大学院学生会など同じ属性の人たちが集まるグループは結構あったりするんですけど、ここのメンバーは異業種の社会人でバックグラウンドが違う人たちが集まっているので、アプローチできる可能性が広いし、何か面白いことができるのではないかなと思いました。

 

なつこ:米国大学院学生会はどんな活動をしているの?

 

かい:10年くらい運営している団体だと思うんですけど、理系だけではなくいろんな分野の人が集まっていて、日本の大学で留学に関する説明会をやったりしています。今回の一時帰国のタイミングで、東工大・北大・東大に説明しにいきます。

 

さとし:かい君は、いろんな団体を掛け持ちしてサポートしていて、すごく活動的だよね。

 

かい:今年は特にいろいろ動いたかも。動きすぎてるくらい笑

 

さとし:バイタリティの源は何かあるの?

 

かい:興味持ったらとりあえず動いてみるタイプですね。すごくエネルギーがあるタイプではないと思うんですけど、とりあえずやってみようと思って動きます。そのきっかけは、やっぱりマレーシアだったと思います。

 

さとし:留学をしてみることで、他のことに対してもフットワークが軽くなったり、飛び込みやすくなるってあるよね。どうなるかわからなくても、どうにかなるって思えるようになったしね。

 

一同:たしかにー!

 

博士過程のときに海外に初めて行って、「なんだ、英語話せなくても海外でもいけるじゃん」って思った。(さとし)

さとし:かい君やなっちゃんとは違って、僕は学生として留学したわけではなくポスドクで留学しています。自分は学生時代に留学行かなかったけど、国内でドクターを取るよりも海外でドクターを取った方が圧倒的に良いことを肌で感じていて。これからの若い後輩たちにもっと海外でドクターを取る選択肢を考えてほしいな、1人でも多くの学生が海外に出てくれた嬉しいなと思ってる。自分が行けなかった分、もっと若い人たちに行ってもらいたいなって。

 

ちひろ:行かなかったのはなんで?行く選択肢を考えたことがなかったの?

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さとし:まったく考えてなかったです。高校・大学・大学院ともずっと留学経験なく、短期留学さえしたことなかった。外国人といえば、実家の牡蠣養殖場に来る中国人の研修生くらい(笑)自分が会ったことないヨーロッパの人はきっと賢いんだろうなって考えているような、典型的なステレオタイプの日本人だった。両親も大学に行っていなくて漁師の家系だから、周りに留学している人はもちろんいないし、留学に行く選択肢はまったく思い浮かばなかった。だから、高校生くらいまでは岡山県から先の世界は考えたこともなくて、ベストの就職先は県庁や教師だと思っているような学生だった。

 

でも、高校のときにヨット部の部活動で全国大会に出る機会をもらって、日本を舞台に活躍する道もあると視野が広がったんだよね。ヨット部で中国大会で優勝して、県代表として国体にもインターハイにも出場して、日本で挑戦しうることを身をもって経験できた。

 

その後、大学に行くときに牡蠣の研究をしようと思って、牡蠣といえば広島大学だと思ってAO入試で入学しました。勉強していくうちに興味が広がり、最終的に釣りが大好きな先生のところに行って、その先生のもとでイカの研究を始めたというわけ。

 

でも、学部に入ったときからイカの研究をずっとやっていくことを考えていたわけではなくて、高校教師になろうと思ってたんだ。ヨット部で中国大会には優勝したのに、全国大会では入賞すらできなくてめっちゃ悔しくて。だから、今度は自分が高校教師になって後輩たちを全国大会で優勝させたいって思ってた。だから、高校のときから、大学4年間はひたすら部活動やって、2年間で研究して就職して高校教師になる6年コースを考えてたんだよね。

 

でも、大学でも日本一は取れなくて。で、大学院に入って研究始めたらこれが楽しくなった。高校教師になろうと思ってマスターに入ったけど、2年生になって、公務員試験、博士の入試、就活という進路を決めなきゃいけないタイミングになったときに、指導教官が「お前はもっと広い世界で活躍した方がよい」って言ってくれたんだ。それで、先は見えないけど、博士取って自分で人生を切り開いていくのも面白いかなと思って、博士過程に行くことにしたんだよね。

 

でも博士の入試のタイミングでは、海外はもちろん考えてないし、指導教官への恩返しもあって国内の他大に行くことさえ考えてなかった。それで、そのまま広島大学の博士過程に入ったんだけど、補助金とかをもらうときに研究業績を書くときに国際学会での発表がないのはありえなくて。このときに初めて海外に対して目が向いたかもしれない。それで、初めて行った国際学会がスイスで、フランス・イギリスと回って。これが初めての海外旅行でもあったんだけど、すごい面白くて。「なんだ、海外行っても意外といけるじゃん」って思った。

 

ちひろ:何が面白かったの?

 

さとし:とりあえずひどい英語でも通じて自信になった(笑)あと、英語そんなに話せなくても、一緒に笑って飲んでたら海外の人は仲間に入れてくれるし。昔からヨーロッパの人は賢いだろうって思ってけど、学会の発表内容とか聞いてて、そうでもないぞってことに気づけた。しかも、イギリスで訪ねた研究室の先生が学生を褒めるのがすごくうまくて。「お前のやってることすごいよ!」って言われたら、海外でもいけるかもなって思うじゃん。それで、海外に行ってみたいと思った。博士過程2年のときだから、24のときだね。

 

それでちょっと調子に乗っちゃって、日本でスピーチコンテストに出たら優勝できて、オーストラリアの世界大会に行ける権利をもらったんだよ。それで、英語たくさん練習して世界大会に出てみたら、トップ10入りしちゃって。

 

ちひろ:すごいね!!なんのスピーチをしたの?

 

さとし:博士過程の学生が3分で自分の研究内容をスピーチするというコンテストだった。イカについて話したよ。先生たちに「お前はしゃべるのが好きそうだから出てみないか」って言われて出たんだ。

 

なつこ:さとしさんの周りには良い示唆を与えてくれる人がたくさんいたんだね。

 

さとし:うん、とても恵まれていたと思う。スピーチなんてやったことなかったんだけど、意外と世界でも戦えるんじゃない、ってまた調子に乗っちゃったわけ(笑)

 

それで、博士卒業したあとどうするかを決めるタイミングになったときに、選択肢はいくつかあったけど、海外に行こうと思ったんだよね。文科省が出している若手研究者を2年間海外に派遣するプログラムに応募しようと思って、受け入れ先を探したときに、自分と同じ研究をやってて、かつ自分より先に行っている人を見つけて。このまま自分1人でやっていっても負けるから、共同研究申し込んで仲間にしちゃおうと思って。まったく面識のない先生なんだけど、とりあえずメール送って、その学生と国際学会で会ったんだ。そうしたら、一度UCLAに来てという話になって、文科省助成金が取れたら来ていいよってところまでこぎつけて。助成金が取れたので、UCLAに行ったというわけ。

 

海外でドクターを取る学生が増えてほしい。学生たちの視野を広げるきっかけになりたい。(さとし)

さとし:UCLAに行ってみたら、岡山・広島に行って社会人経験もない自分とはまったくバックグラウンドの違う人たちにたくさん会えて。人間的に魅力のある人ってこんなにたくさんいるんだなって知ったんだよね。その中で、日本でドクターを取っても、国際的には話にならない、という体験談をきいた。国内でドクターを取るよりも海外でドクターを取った方が、良いことを聞いたし、雰囲気を感じた。後輩たちにもっと海外でドクターを取る選択肢を考えてほしいな、1人でも多くの学生、もちろんポスドクも海外に出てくれた嬉しいなと思ってる。そのためのお手伝いができたらいいなと思ってる。

 

あとは、自分の場合、文科省の申請書の書き方とかどこにも情報がないし、すごく大変だった。指導教官からも、卒業後したら1人の研究者だから、今までのように面倒みないぞと言われて、具体的な研究計画はみてもらっていない。でもそのおかげで覚悟はできました。先生にはみてもらっていませんが、学会で会った研究者に申請書類を見てもらい、「絶対落ちるぞ」と言われたね。書いている内容が広がりすぎていて、どこが重要なのかわからない、もっと絞った方が良いとアドバイスをもらったけど、もうすでに提出済みだったから直せなくて。おまけに誤字脱字もあったから、「お前は来年の申請の準備した方がよいぞ」って言われていたけど、蓋を開けてみたら面接免除で即採用になった!たぶん熱意が伝わったんだと思う(笑)

 

なつこ:日本の学生たちは、海外のドクターを取った方がいいぞって言われることはないの?

 

さとし:言われないね。

 

ちひろ:それは、海外のドクターを取った人がいないから、海外に出る選択肢をアドバイスもできないってこと?

 

さとし:どちらもあると思う。先生の考え方で大きく変わると思う。僕のまわりでは、海外でドクターを取った人はいなかった。僕の指導教官は僕が海外に行きたいと話した時に初めて、海外にでるアドバイスを話してくれた。あと、例えば、研究室って師弟制度みたいなところもあるから、指導教官によっては「俺のところ入ったのに他のところ行くのかよ」「外に出たらもう戻ってこれないぞ」みたいに思う先生もいると思う。そういう人たちたいる大学だと、「国内の他大学院にいくことすらご法度」という空気だから、学生は海外に行くことなんて考えられないよね。

 

あや:東京と地方で結構差があるんだね。

 

さとし:うん、違うと思う。僕自身、広島にいたときは東京と地方で学生や先生の考えも違うのかなとぼんやり思っていた。uclaきて驚いたのは、学生が戦略的に良い研究室に行こうとしているし、それって自分の能力を高めるために当たり前だと思うんだけど、そんなことすらわからない世界に自分はいたんだよね。当たり前が全然違う。外に出ていなければ外の世界がどうなっているかはわからないから、誰かが言ってあげる必要があるんだよね。そのきっかけに自分がなれたらいいなと思ってる。

 

かい:それは大学に説明会に行っても思います。例えば、東大に説明会に行けば200人くらい集まるんですよ。だけど、地方に行ったら10人以下のこともあるから。

 

さとし:一部の研究者の世界だと、海外留学したい、大学院変えたいということ自体はばかられる雰囲気があるんだよね。教授のこと裏切るみたいな。変えるというと、「先生と何かあったの?」「先生と折り合いがつかないから辞めるの?」とかまずはネガティブな質問される。

師弟制度の中でポジションになっている人が何代も続いて今の指導教官になっているから、そのプロセスが当たり前になっているんだと思う。

 

なつこ:じゃぁ地元の友達からやばいヤツだと思われてる?

 

さとし:うん、思われていると思う!でも自分の人生は自分で決断してきたから、後悔は何一つない。

 

一同:爆笑

 

なつこ:海外留学行っただけで、あいつは違う世界のやつ、みたいに思われるところあるよね。

 

さとし:生きてきた界が狭い分、地方の人は違う世界を見たときの衝撃は大きいし、「こう変えたい!」って思うエネルギーも大きいと思うから、もっと海外に出てほしいと思ってる。

 

あや:地方問題は、別記事にしてもう一回話せそうだよね。

 

高校生時代に中国の高校生の勉強量見て「自分やばい」と思いました。社会人になって「えいや」で留学を決めてよかった。(なつこ)

なつこ:高校1年のときに、日経新聞社が高校生を対象に開催する「日経エデュケーションチャレンジ」というイベントに参加して、1日かけて様々な分野の社会人から「仕事とは?」みたいな話を聞いたんです。そのイベントは、イベントの感想文で応募するコンテストもセットになっていました。結果、全国から10人くらい受賞されてそのうちの1人に選ばれて、中国に1週間くらいの研修ツアーに行ったのが、自分にとって大きな海外体験になりました。

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ちひろ:なんでそのイベントに参加したの?

 

なつこ:当時私は地元の広島に住んでいたんですけど、姉が大学進学のために先に東京に出てきていて、夏休みで東京に遊びに来ていたんです。それで、姉が相手してくれない日が1日あったときに、父親が「こんなイベントがあるぞ」って勧めてくれて、やることもないし行ってみよう、という軽い気持ちで行きました。

 

ちひろ:全国から10人に選ばれるってすごい!実際にイベントではすごく感化されたの?

 

なつこ:すごく感化された!田舎で育って社会が何たるかも知らない高校生の私にとってはすごく刺激的だった。自分の周りの社会って、先生と友達と家族くらいしかない中で、日本の一流企業の人たちが仕事について話してくれて、すごく世界が広がったし、働くって面白そうと思いました。

 

コンテストで選ばれて行った中国では、企業訪問や、現地の高校生との交流会がありました。そこで初めて中国の学生に会って、中国人めちゃくちゃ勉強しているな、と驚きました。彼らの1日のスケジュールを聞くと、朝はやくから学校の特別クラス、通常授業を受け、学校が終わってからも勉強のスケジュールがぎっしりで衝撃を受けました。世界を知らない田舎の高校生だった私は、この話を聞いて「日本やばいな、自分やばいな」ってそこで初めて気づいたんです。

 

そこから世界に意識が向くようになって、いつか海外に行きたいなと考えるようになり、その後大学2年のときにゼミの研修旅行でロサンゼルスに行きました。費用は自分持ちでしたが、ロスで企業訪問をさせてもらい、ここでいつか何年か暮らしてみたいなと感じました。でも就活が始まってしまい、留学を考えるのはしばらく頓挫してしまい、その後1ヶ月間インドに短期留学もしましたが、長期の留学はできないまま社会人になりました。

 

社会人1,2年目はまたあっという間に過ぎてしまいましたが、3年目くらいに「あ、まずい、留学するなら今が最後だな」って思い始めたんです。年齢や、結婚・出産のことも考えると今行かないと、と思い、留学のための英語の勉強を始め、アプライして留学に至りました。

 

かい:学生時代に留学したいと思った気持ちをあきらめず、25歳くらいでやっぱり留学しようって思ったきっかけって何かあったんですか?社会人になったら忙しくなっちゃうし、周りにも同じような人は少ないだろうから、相当な思いがないと、留学に踏み切れないかなと思って。

 

 

なつこ:確かに、社会人で留学しようと思ったときは孤独だった。でも、大学時代に受講していたTOEFL講座の講師だった方と意気投合し、講座が終わったあともずっと仲良くさせてもらっていたこともあって、本格的に留学したいと思ったときにその方に相談したんです。

 

なんでこのタイミングで留学を本気で検討し始めたかというと、3年くらい経って一通りの仕事を経験して1人で仕事を回せるようになって、働き始めた時の目標だったお客さんから指名というのが実現して、コンサルの仕事は一旦やりきった感があったのだと思います。そこで次のステップで何かしたいなというのもあって、長く考えていた留学を実現させるタイミングかなと思いました。

 

ちひろ:留学することに怖さとかはなかったの?社会人になってから留学するってことは、職がなくなるとか失うものも大きいから。

 

なつこ:それでいうと、会社を辞めることになるのでまずは社内のメンターに相談したときに、「リスクしかないぞ」って一蹴されたんです。まずは抱えているリスクを全部洗い出せって言われて、その時ノートに書いたんです。例えば、帰ってきたときに再就職できないかもしれない、とか結婚できないかもしれない、とか最悪テロに巻き込まれて死ぬかも、とか考えうるリスクをすべて考えて書き出しました。

 

でも、全てのリスクを理解したうえでも、やっぱり留学したいと思えたので、そのことをメンターに伝えました。その後上司に話したときも「お前馬鹿だな」って(笑)順調にキャリアもつめているのに、今辞めてキャリアや人生がどうなるか見えない中でその決断をするって。会社としては人材流出を防ぐために引き留めなければならなかったのでしょうが、愛情あっての言葉で最終的には「がんばってこい」って応援してくれました。

 

今思えば、リスクを書き出してはみたもののあまり深くは考えていなくて、なんとかなるだろうと思っていました(笑)生活水準を落とせば食いぶちがなくなることはないし、テロに巻き込まれたらそれは運命だし…でもそうやって「えいや」で会社を辞めたことが結果的にはよかったと思います。

 

あや:周りに相談できる人はいなかったの?

 

なつこ:さっき話したTOEFL講座の講師がいてくれたことはすごく助けになりました。私が大学時代から留学に行きたいと思っていたことを知っているので、よく相談に乗ってくれました。あとは、会社の同期が2人MBAに行きたいと思っていたので、3人でTOEFL頑張って、出願頑張って、と助け合っていました。TOEFLの点数が出ないときも3人で慰め合いながら前に進んで、結果的に他の2人もMBAに行けました。

 

情報が何もなかったのはつらかったです。社内公募で先輩が行っている、というわけではなかったので、先輩情報もないですし。逆に情報が全くないことで、大学ランキングを見るところから始めて、何かに惑わされることもなくあまり考えずに留学準備を進められた部分もあったかもしれません。大学時代のロサンゼルス研修で、当時UCLAに留学されていた方のお話を伺いすごく憧れたので、場所としてはロスに行きたいというのもあったと思います。

 

かい:アメリカの大学院のあとの目標みたいなものは何かあったんですか?

 

なつこ:いや、あまり考えてなかった(笑)だから、志望理由を書くのは苦労しました。きっと海外に行ったら自分は何かを思うだろう、そうしたら何か次のステップが見つかるはずだと思っていました。

 

あや:たぶんそう思えたのは、高校生のときの中国の経験があったからなんだろうね。

 

なつこ:そうかもしれない。私がこんな感じだったから、会社の上司もメンターもはじめは反対したんだろうけど、なんとかなると思ってたかな。

 

かい:社内で留学する道はなかったんですか?

 

なつこ:あるにはあるんだけど、到達するのに10年くらいかかる上の役職でないと行けなかったんです。海外駐在でトレイニーで1年間海外に行ける制度はあったのですが、駐在は何か違うなと思っていたのと、駐在先はアジア圏しかなかったので、当時はあまり興味がなかったんですよね。あとは、転職して転職先から海外に行かせてもらう道も考えましたが、今は企業派遣も減っているし、転職してすぐに行けるわけでもないし。私費留学意外に道はなかったんです。

 

さとし:タイムリミットをすごく意識して行動しているよね。

 

なつこ:そう…でも今思うとあまり関係なかったかな(笑)

 

一同:爆笑

 

なつこ:でも結果的には、早く気づいて早く出たのはよかったと思います。もっと会社に勤めてから辞めるとなったら、それこそ重い腰が上がらなかったかもしれない。

 

孤独に留学準備している人を助けたい。留学は踏み出す一歩を手伝いたい。(なつこ)

なつこ:あやちゃんとちひろちゃんが留学関係のアンケートを取っていることは聞いていて、何か手伝えないかなと思ってたんです。私は、孤独で情報がなかったのが大変だったけど、一歩さえ踏み出せばなんとかなるということもわかっていたので、その一歩を踏み出すお手伝いができないかなと。

 

編集後記

この活動を一緒にやってきて思いをともにする仲間たちだけど、そのバックグラウンドや原体験は驚くほど違っていてあっという間に時間が過ぎていきました。次回はどんなエピソードが飛び出すか、楽しみにしていただけたら嬉しいです。

ぼんやりとした目標でもいい、高校卒業後の留学で自分が本当にやりたいことを見つける!

畑辺 将希さん

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基本情報

名前:畑辺 将希

所属(現):リード エグジビジョン ジャパン株式会社

最終学位:学士

年齢:34歳

性別:男性

出身地:熊本県

経歴

2004年9月:Citrus College入学

2006年12月:Citrus Collegeビジネス&リベラルアーツ卒業

2007年2月:OPT (Optional Practical Training)

2008年1月:OPT終了

2008年5月 :California State Polytechnic University, Pomona編入

2011年12月:California State Polytechnic University, Pomonaリベラルアーツ卒業

 2012年2月:リード エグジビジョン ジャパン入社

 

インタビュー

1 留学に至った経緯―普通の体育教師にはならない―

体育教師になって高校野球を教えるんだろなと思っていました。自分が高校生の当時、兄がアメリカのロサンゼルス近郊にいたので、兄からよくアメリカの教師の話を聞いていました。生徒や保護者、コミュニティの関わり方なども聞き、自分の中でのロールモデル・理想像はアメリカの教師になったのです。憧れを持ったアメリカの教師は、大学を卒業してそのまま教師になるのではなく、社会に出て様々な経験を積んで、教科書を通じて、自身の経験を交えて生徒に教える、そんな教師になりたい、と漠然と考えていました。また、通っていた熊本の高校は“チャレンジ精神”を大切にしていたので、日本の大学進学よりエスカレーター式に教師になる選択肢が一般的な中で、何かチャレンジしてやろうという気持ちがありました。あとはスポーツの最先端の国、野球でも世界一と称されるアメリカで学びたい!といった感じで留学することを決めました。

 

2 学校選びと学部留学―英語力がなくても何とかなる―

兄の紹介で、くまもと留学センター(現:留学サポート熊本)というところに行き、相談しました。そこで紹介されたのが、入学することになるCitrus College(以下、Citrus)です。いざ留学を心に決めたのは、良かったですが、高校まで野球ばかりで勉強をおろそかにしていたので自分の英語力はひどいものでした。それでもCitrusは受け入れてくれるといったし、Citrusは野球も強いし、といった感じで、あまり迷うことはなかったですね。なので学校を選ばなければ留学のハードルが高いとは感じません。その後勉強せずまま渡米したので、ホストファミリーと全くコミュニケーションが取れず泣く事になるんですが (笑) 渡米後、Citrusのサマースクール(英語)のテストに合格すればカレッジに進めるということで、5月に渡米してから死に物狂いで勉強し、なんとかテストに合格し9月からカレッジに入学できました。自分でもすごい勉強したと思います、でもこれまで野球に注いでたものを全部英語に切り替えただけなんですよね。語学学校に行く必要もなくそのままカレッジに行けたので、費用面でもかなり助かりました。Citrusに入学後は野球部の入団テストも受かったのですが、バッティングに重きを置いていて、ホームラン構成の戦術の中、他に戦術的なものを学ぶ雰囲気はなく、あまり日本に持ち帰るものはないなと判断、そこで野球を捨てました(笑)結局趣味として台湾人チームに入れてもらってやることにしました。そんなこと日本にいる時から調べとけよって感じですけどね(笑)

 

 

3 大学での学び・留学での学び―自分の生涯をかけてやりたいことを見つける―

こうして野球からは少し離れることになりました。CitrusではPE(体育)や教養科目の他に、幅広い世界を見たいという思いから、その基礎としてビジネスを専攻することにしました。ビジネスを学んでいくうちに、学んだことを実践したい、0→1を生み出す経験をしてみたい、という思いが強くなりました。この時考えていたのが、留学生が活躍する場を作るというアイディアです。場を作るには物理的に場所も必要です。学校の正式なクラブとして認められれば校内で場所を借りることができるため、インターナショナルオフィスに相談に行きました。そこにいたのがMr. Coeです。彼は本当に理解がある人で、クラブ活動を支援しオフィスとして金銭的な支援もしてくれました。今でも連絡を取っている恩人ですね。Citrus音楽学部が強いので、最初は150人ほどの音楽祭を企画しました。そこからファッションショーにまで拡げ、300人、400人と2年間で6度開催し、回数を重ねる毎に規模を拡大していくことができました。最初はひとりで始めたし、苦労も絶えなかったですが、それ以上に楽しかった。自分が誰かの活躍する場を提供できるということが本当に嬉しかったし、やりがいを感じました。

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カレッジを2年で卒業する時には、まだ何か中途半端だな、やり残したことがある、と感じたのでOPTとしてロサンゼルス近郊で1年間働くことに決めました。そこで、この後進む大学の生活費なども稼ぐことができましたし、経理業務を中心に複数の会社で働きました。そうして、California State Polytechnic University, Pomonaに編入し、学士まで取ることができました。生活していて感じたのが、日系社会がとても弱いということ。野球のWBCを見に行った時にも、韓国人や中国人は母国を応援しにたくさんの人が集まるのに、日本人は全然集まらない。でも、ロサンゼルス近郊で日本人ってとても信用されているんです。例えば、部屋を借りる際にも普通は必要になる頭金も日本人だったら払わなくていいよって言われたり。そういった日本人だからこその恩恵を多々受け、自分も日本人として誇らしくなり、母国心が強くなりました。そして、もっと日本社会を盛り上げたい、日本をもっと元気にしたいってこの時強く思いました。そして課外活動で自分で提案書を書いて、飛込営業で25,000ドル以上出資を集め日本からミュージシャンを呼んだりもしました。その頃に現在勤めている国際見本市を主催する会社に出会い、ビビっときたのです。自分の本当にやりたいことがこの会社で実現できると。各業界発展のために人・モノ・情報を集める、それを企画し提供する。よくよく思い返すと、最初にCitrusで留学生のための活躍の場を作りたいと企画した音楽祭と根底では繋がっていますね。

 

4 留学で得られたこと―ワクワクするような心や考え方に変わった―

異国の地で、日々、自身がやりたいことは何なのか、徹底的に考え向き合って動き続けたこと。それが今に繋がっていると思います。それからよく言われることですが、母国心が強くましたね。自分が日本のことを知らなさすぎたことに気が付きました。日本を出ることでアメリカ人だけでない他国の人と触れ合い、比較対象が増えました。視野が拡がる、世界観が変わるってこういうことなのかなって。また、日本にいたら出会えないような色々な面白い人と出会うこともできました。ビーチバレーボールの発祥の地、サンタモニカに行くと、ビーチの王様と呼ばれる有名人が普通にビーチにいて話がはずみ、日本のビーチバレーボール選手(弟)をアメリカに呼び、合宿して教えてもらえたり。毎日、良い出逢いがあるかもしれないから活動しないと、もったいない!と思えたのも留学したからこそ根付いた考えでした。留学のおかげでって考えてみるとたくさんありますね。女性に対しても、当たり前が当たり前じゃないと思うようにもなりましたね。九州出身なので九州男児の振る舞いが当たり前と思っていたのに、すっかりレディファースト精神に憧れて帰ってくるっていう(笑)今の妻も昔の自分では、ゴールインできなかったのかなと(笑)。キャリアの話としては、自分は海外系の案件を多く任せてもらっていますが、世界では、日本の当たり前が通じないという前提で考えられることは、今の仕事に大きく活きていると思いますし、留学して考えが変わらなければ、あらゆる事象を受け入れられなかったと思います。

 

5 将来と続く人へ―なんとなくでも動いてみればいい―

今は自分のやりたいことができていて充実した毎日です。将来的には地元である九州で国際見本市を開催することが目標です。やはり自分を育ててくれたところに感謝の気持ちもありますし、少しでも地域活性化に貢献できれば嬉しいなと考えています。留学する人の中で、自分のやりたいことが明確な人は2割くらいだと私は、思います。その他8割は自分が何をやりたいか分かっていない。そのうちの半分の人が何となくでも動いてみることができる人だと思います。自分はその半分だったのだと思います。高校時代、体育教師というぼんやりと目指すところはあったものの、これを何が何でもやりたいという強い思いにまでは至っていなかった。留学する人は皆、明確にこれがやりたいっていう2割だと思われているかもしれませんが、自分みたいに、ぼやぼやとイメージして留学する人も実際は、多くいると思います(笑)海外に出てみるということは、思っている以上に多くの刺激があり、学びがあり、否応なしに頑張ることになります。そこでやりたいことが見つかれば幸せなんじゃないかな。

 

 

 

編集後記

留学時代の日本人の友人がオーナーをしているという新宿ゴールデン街のバーでのインタビューとなりました。お酒を飲みながら、そのオーナーさんも含めて留学あるある話で盛り上がったりと、リラックスした中で、でもとても熱い想いを語ってくれました。畑辺さんとは筆者が日本で大学生をしていた時にロサンゼルスに留学をされていて出会ったのですが、自分の芯をしっかり持っていて軸がぶれず意見をはっきり言うところは当時と変わらず、インタビューを忘れるくらい懐かしい楽しい時間となりました。レディファースト九州男児もありなんじゃないですかね(笑)九州での国際見本市の開催を楽しみにしています!

 

インタビュアー:Natsuko Tanaka

 

パートナーへの帯同でキャリアを諦める必要はない-自分にしかできない道を求めて-

Chihiroさん

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基本情報

名前:Chihiro

最終学位:大学院

年齢:30代

性別:女性

出身地:東京

経歴

法科大学院卒業後、弁護士登録

中規模法律事務所、企業内法務部に勤務

2018年:Santa Monica College入学

2019年:Santa Monica College修了(Business Department Certificate取得)

 

インタビュー

いまされている活動を教えてください。

今は、アダルトスクールという、ロサンゼルス市が主に移民向けに提供している無料の語学学校に通って引き続き英語力の向上を目指しながら、今一番興味のあるアートマネジメントを学ぶため、アメリカの大学が提供しているオンラインの講座を受講しています。

アートマネジメントは、アメリカに来る前に働いていた環境とは全く異なる領域なのですが、大学に入るまでクラシックバレエのダンサーを目指していたこともあって、いつかは何らかの形で日本のバレエや劇場芸術を裏側から支えるお手伝いをしたいと思っているんです。アートマネジメントの分野は、日本に比べるとアメリカの方が圧倒的に学問も実務も進んでいるので、本も講座もたくさんあります。時間がある今、自分の大好きな分野の知識を増やす時間は至福のときです。

 

学校に行こうと思った/今の活動を選んだきっかけは?

元々日本の企業内弁護士として勤めていたのですが、主人の留学に伴い、会社を辞めて主人と一緒にLAに来ました。最後に勤めていた企業では、新規事業が日々立ち上がるような部署の法務担当として、新規事業が生まれる前から、担当者と一緒に法的リスクを調査したり、利害関係者の契約スキームを検討する仕事をしていました。弁護士としてのキャリアを開始した当初から、事業会社の外でクライアントからの相談を待っているのではなく、ビジネスに近いところで新しいものを一緒に創り上げる仕事をしたいという思いが強くてこの会社に転職したのですが、実際担当してみたら性にも合っていました。

 

なので、LAに行くことが決まって、日本に戻ってきたあとのことを想像したときに、これまでやってきたような起業家の支援を続けたいなと思い、この思いをベースに何かを身に着けてこようと考え始めました。弁護士というと、アメリカの法科大学院で学ぶ選択がすぐに頭に浮かぶのですが、私が仕事をしながら不足していると感じていたのは、アメリカ法の知識というよりは、起業家が検討すべき法務以外の分野の知識や、幅広い知識を踏まえたもっと実践的な支援のあり方でした。

 

そこで、もっと弁護士としての幅を広げるべく、起業(アントレプレナーシップ)について広く学べるプログラムを選ぼうと考えました。それと、もう少し後ろ向きの理由を言うと(笑)、主人の留学期間は2年の予定だったので、2年間キャリアに穴が空いてしまうのが怖いという気持ちも強かったです。なので、とにかく「何かやらなきゃ!」との思いの中で、何を学びたいのか必死に考えました。

 

学校選択の基準・決め手など

渡米する直前まで日本で働いており、英語のリーディングも得意ではなかったので、自ら多くの情報を調べる余裕はありませんでした。そこで、まずはエージェントを探し、主人が通う予定の大学に近くて、総合的に学べる大学はないかと相談した結果、同エリアで一番大きくて、アントレプレナーシップのプログラムもあるサンタモニカカレッジ(SMC)を紹介してもらいました。

 

日本に戻ってきてから転職する時に履歴書に書くことを考えると、USCやUCLAのエクステンションも選択肢にはありましたが、USCは学費が高すぎて自費では通えませんでした。また、UCLAは、アントレプレナーシップに特化したコースはなかったことに加え、私の興味のあるコースはcertificateの取得までに少なくとも3学期かかることがネックになりました。主人が大学を1年で卒業した後、2年目もLAに残るかアメリカの他の地域に行くかが当時は決まっていなかったので、LAには9ヶ月くらいしかいられない前提で大学選択をしなければならなかったんです。

 

パートナーとして帯同する場合、どうしても主たる留学者の都合に合わせなければならないので選択肢が狭められてしまうのですが、私はじっくり選んでいる暇もなかったので、SMCに一気に絞れて気持ち的には楽になりました。

 

留学前に大変だったこと、どうやって克服したか(金銭面、家族の説得、推薦状依頼など)

渡米直前に勤めていた会社は、転職して3年半経ったところで、自分自身の視座がやっと高くなってきて視野が広がりかけてきたころでしたし、社内にもたくさんのつながりができてより刺激を受けるようになってきたタイミングでした。なので、主人に帯同することでキャリアが絶たれるマイナスのインパクトは相当なものでした。当時は仕事にかけている時間がほとんどだったこともあって、帯同に伴って仕事を辞めるとアイデンティティクライシスに陥るのではないか、との不安が一番大きかったです。もともと行動していないと落ち着かない性格なので、「やることがなくなる」恐怖は人一倍だったと思います(笑)不安を和らげるには生活を充実させるしかないと思い詰めましたが、(ビザの関係で)通学かボランティアしかできないので、まずは大学に行くことに決めたのです。

 

また、私は幼稚園のころに親の転勤でサンフランシスコに住んでいた以外海外生活経験もなかったので、今回がほぼ初めての海外生活でした。なので、LAに移ってからの生活を思い描こうにも、不安なことが何なのかさえわからないという漠然とした不安にも襲われていました。結局、最後まで「行きたくない!」と騒ぎ続けながら、不安を全く払拭できない状態で渡米しました(笑)

 

主人について行かずに仕事を続けるという選択肢もギリギリまで考えていましたが、海外での生活は誰でも経験できるものではない、2年の期間限定で帰ってこれる、本当に嫌になったら帰ればいい、の3点で帯同することを決めました。結果、渡米以降一度も日本に帰りたいと思ったことはありません(笑)今になってみれば、「考えすぎず来ちゃいなよ、来てみたら良さがわかるよ」と当時の私に言ってあげたいです(笑)

 

学校に通ってみて/活動をしてみて良かったこと・気づいたこと

1つ目は、日本が海外からどう見られているのかを授業を通じて知ることができた点です。アントレプレナーシップのプログラムには、起業家精神のマインドを学ぶ授業や、会計・法律の基礎を学ぶ授業の他に、様々なビジネスの仕組みやその成り立ちを学ぶ授業がありました。その授業では、各国や有名企業の発展の手法を、関税などの経済システムや、資本主義・社会主義といった社会体制や思想、企業文化など、様々な視点からケーススタディで学びました。

そうすると、驚いたことに、日本の事例がたくさん出てくるんです。全部で17章あった全テーマを通じて、日本と日本企業の登場回数は特に多く、そして良くも悪くも取り上げられた国だったように思います。「良くも悪くも」の意味は、高度経済成長期の経済成長率やトヨタの「カイゼン」として知られる効率化の事例など、素晴らしい事例が華々しく取り上げられる一方、バブル以降は経済停滞から脱することができず、人口が減少して徐々に衰退している、との寂しい評価でも取り上げられていました。日本にいても、何となくは気づいてはいましたが、日々の生活を淡々とこなすだけでは世界の中の日本という視点で具体的に考えることはなかったので、「海外から見る日本」がどのようなものかを知り、自分の国を客観的に捉えられたのは新鮮でした。

 

2つ目として、起業家精神のマインドを学ぶ授業で面白かったのは、「1日実際にビジネスをやってみる」という体験型の授業です。4人ずつのグループに対して、教授からそれぞれ5ドルが渡され、その5ドルで1日ビジネスをして多くの収益が出たグループが勝ちというものです。ビジネスの内容に制限はありません。

 

例えば、ハリウッド山や学校の周辺でペットボトルの水を売るグループもいれば、女性2人でメイクのコンサルサービスを行ったグループもいました。私たちは、20歳の女の子のクラスメートの「アイスを作りたい!」の一言で、手作りアイスを作って学校の一角で売ることを決めました。30代の男性メンバーが飲食店を経営していたことも幸いして、自分たちが持つリソースをフルに持ち寄り、5ドルで材料を揃えることができました。当日は、よく晴れたこともあり想像以上の学生が集まってくれ、1個1ドルのアイス販売2時間で50ドルの利益を出すことができたんですよ。楽しかった!この体験型授業を通じて学んだことをまとめれば、「Think Big, Start Small, Act Fast」でした。

 

私は、アメリカに来てからというもの、英語が十分に話せないこともあって、持ち味だと思っていた「行動する」性格をすっかり出せなくなっていたのですが、この学びを得てからようやく動けるようになってきたように思います。英語学習のブログを立ち上げてみたり、Ref.代表のあやちゃんと留学に関するアンケートをFacebook上で実施するなど、今のPathfinders’につながるきっかけとなる小さな行動を開始したのもこのあとのことでした。

 

最後に、社会人になってから留学したことも良かったと思うことの1つです。すでにある程度世の中やビジネスのことも分かった上で新たな知識をインプットすると、学生の時よりも明らかに吸収できる内容が多いように感じました。ある程度働いた後に新しいことを海外で学ぶのは、新たな世界に目を開かせるきっかけになると思います。

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学校に通ってみて/活動をしてみてガッカリしたこと

1つ目は、カレッジだと、地元の高校を卒業したばかりの生徒が圧倒的に多く、私に比べるとかなり若い学生ばかりでした。私も高校卒業したてのときは同じでしたが、まだ社会経験がないため個人としての考えも成熟していないですし、社会や自国のことも十分に理解できていないのです。その結果、授業で刺激的な議論が行われるかというと、そうではなかったように思います。とはいえ、私も英語で議論などできない状態だったので、やっと理解できるレベルでちょうどよかったのですが(笑)

 

2つ目は、私のプログラムはアジア人すら少なくて現地学生が多く、なかなか会話を弾ませることができなかった点が残念でした。私は主人がロースクールに通っていたこともあって、世界中から集まるロースクール生との飲み会やパーティーにも参加する機会がありましたが、その時に思ったのは、英語ができなくても共通項があると話が盛り上がりやすく、友達関係を築きやすいということです。カレッジでは、ほとんどの学生が10歳以上年が離れ、バックグラウンドも大きく異なるので、なかなか仲の良い友達が作れないのが悩みでした。これは、私があまり英語を話せず積極的になれなかったという事情も大きいので、残念というか自分の実力不足への反省でもあります。

 

それに、「一から友達を作る」ということ自体遠い昔すぎて、友達の作り方を忘れていたというのもあったと思います(笑)。日本にいたときは、自分からどんどん話しかけていけるタイプだと認識していたのですが、そういえば自分は根っこの部分では人見知りだったことを思い出しました。言語というコミュニケーション手段を奪われると、自分を覆ったり武器になってくれるものがなくなるので、結構本質的な部分が表面に出るものだなと痛感しました。もしも、渡米して時間が経ってからカレッジに通っていたら、少し違う感想を持ったかもしれません。今になって思えば、私の場合は、キャリアに穴が空くことに焦らず、まずは英語にある程度自信がついてからアカデミックな学習と友達の輪を広げるプロセスに進めばよかったかな、と思います。

 

海外での生活を経て、新たに気づいた価値観や自分が変わったと思うところは?

小さな話ですが、ニュースや社会の動きへの関心の幅が広がり、情報収集にかける時間が圧倒的に長くなりました。日本で仕事しているときは、業務をこなすことこそが社会に貢献していることだと思っていたので、とにかく自分なりに一生懸命仕事をすることばかりにフォーカスしていて、新聞も自分の業務に関わりそうなニュースだけを読む毎日でした。ただ、今思えば当たり前ですけど、自分が業務で関わっている事象なんてほんとに小さな世界で、仕事にのめりこめばのめりこむほど、視野が狭まっていったように思います。そう思うようになったので、たぶん、今は、昔のように仕事を詰め込みすぎると、その狭い世界に飲み込まれそうになって息苦しく感じるのではないかと思います。これは、私にとっては本当に大きな価値観の変化です。

 

また、渡米してみて一番自分を変えたと思うのは、自分を見つめ直す時間が増えたことによると思います。日本にいたときは、目の前の業務をこなして日々暮らすことにいっぱいいっぱいになってしまっていて、中長期的に人生をどうしたいのか考える余裕はありませんでした。会社はたくさん考える機会を与えてくれていましたが、全く活かしきれていなかったと思います。なので、アメリカに来て、自分の拠り所だった仕事もない何もないまっさらな状態で、いくらでもある時間を使って、自分の使命は何か、社会にどう貢献したいのか、家族とどう過ごしたいのか、などに思いを馳せることは、私にとってはとても重要な時間でした。

 

冒頭で話したアートマネジメントの学習や劇場芸術の鑑賞に積極的に行くようになったのも、悶々と考え、何度も逡巡する中で「自分にしかできないことをしたい」と考えて取り組み始めたことです。日本のバレエや劇場芸術の世界について、気になっていること、取り組みたいことがたくさんあるんです。その中でもどんな分野についてどんな関与度で関わっていくのかはまだ具体的にイメージできていないのですが、今はせっかくアメリカにいるので、こちらでしか得られない知識や経験をできる限り吸収していきたいと思っています。そして、このインタビューを受けた以上、日本に帰ってからこのLA生活を生かしてしっかりそして楽しく社会貢献することで、次世代の留学を志す人たちが留学に踏み出す一歩の後押しをすることは義務みたいなものと自分にプレッシャーをかけつつ(笑)、これからも積極的に動いていきたいと思っています。

 

編集後記

自分のやりたいことに向かってパワフルに活動するChihiroさん。家族と仕事とのどちらかではなく、どちらも両立するために柔軟に行動していく姿勢は、お手本にしたいといつも思わされます。いち友人として、海外に出る人がもっと増えてほしいという思いから一緒にアンケートをとったりRef.の活動を始めたりと、熱くて優しいハートを持つChihiroちゃんにはいつも助けられています。LA生活を経てさらにパワーアップしたChihiroちゃんのご活躍を楽しみにしてます!

 

インタビュアー:Aya Yoshino

 

NASAで働く日本人エンジニアが語る、目標を叶えるための作用反作用の法則

髙橋雄宇さん

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基本情報

所属(現):NASA/Jet Propulsion Laboratory (ジェット推進研究所)

最終学位:博士

性別:男

年齢:33歳

出身地:東京都東久留米市

経歴

2004年 国際基督教大学高等学校卒業。JPLで惑星探査に関わることを目指して渡米。Embry-Riddle Aeronautical University(アリゾナ校)に入学。専攻はAerospace Engineering。

2007年 同大学卒業。

2008年 University of Colorado at Boulder, Aerospace Engineering Sciences Departmentの博士課程に入学。

2013年 同博士課程卒業。JPLに就職。Mission Design and Navigation(部署)のOuter Planet Navigation Group(課)に所属。衛星軌道のナビゲーションを担う。現在まで準惑星ミッションDawn、木星ミッションJuno、小惑星ミッションOSIRIS-RExに関わっている。

 

インタビュー

留学に至った理由を教えて下さい。

話は小学校まで遡ります。幼稚園の頃に親の転勤でシンガポールに引越しました。 家の目の前がアメリカンスクールだったのですが、私が通っていた日本人学校に比べると建物や施設がとても豪華でした。アメリカは凄い国なのかもしれない、という印象が当時の私に残りました。

 

小学校を卒業してから日本に帰国し、中学は地元の学校、そして高校はICU High School(国際基督教大学高等学校)に通い、6年間は日本で過ごしました。そして高校二年生の時にJPL がやっていた MARS exploration Rover という計画を知ります。これは火星探査のために車輪の付いたローバーという無人探査機を火星に着陸させる計画です。当時高校生だった私はテレビでその計画のイメージ映像を見たのですが、あまりの格好良さに衝撃を受けました。

ローバーがエアバッグに包まれており、それが火星の上をバウンスしながら着陸するんです。(https://wwwyoutube。com/watch?v=6t3IARmIdOI)エアバックなんて車に使用されるイメージしかなかった私は、エアバッグをローバーの着陸に使用する大胆な発想に驚きました。

 

その時ちょうど、物理の授業で重力について習っていて、まさに宇宙の話題はタイムリーでした。ロケットの打ち上げ、火星への軌道設計、そしてパラシュートやエアバッグを駆使した着陸。これは全て数学や物理、そして化学など理系の学問のなせる業です。当時は学校で習った内容を使って具体的に将来何をしたいか考えはありませんでしたが、その延長線上にはローバーを火星に着陸させるという現実世界が広がっているんだと、自分の中で道筋が見えとても感動しました。

僕が見たものは本物の着陸ではなくイメージ映像でしかありませんでしたが、それがきっかけで JPL で働こうと決心しました。

 

決心したときは、まだロケットの打ち上げもされていない頃でした。実際にロケットが打ち上がり火星に着陸したのが2004年の1月で、私は高校3年生でした。JPLの司令室の様子がニュース番組で放送されたのですが、火星に無事着陸したことが分かった瞬間に大の大人が飛び上がっては抱き合い、泣きじゃくるんです。

それを見て、これは本当に凄いことを成し遂げたんだなと思いました。大人が泣くシーンなんて滅多に見ないじゃないですか。そんなことは普通はオリンピックとかワールドカップとか、スポーツイベントぐらいだと思います。自分たちの成功に嬉し泣きするほどの感動がある仕事なんだ、そしてそれだけの情熱を捧げいている人間がいる職場なのだと思い、更にJPLで働きたいという思いが強くなりました。

 

JPLがあるのはアメリカなのだからアメリカ人が働いているだろう。それならばアメリカ人が受けている教育を受けなければいけない、という単純な理由でアメリカ留学を決意しました。迷いや不安は特にありませんでした。

 

学校選択の基準決め手は何でしたか?

留学すると家族に伝えたら、父親がある一言を言ってくれました。それは、「目的がないなら留学をするな」です。僕が高校生の時には「グローバル」という言葉が流行っていて、漠然とグローバルになったらかっこいいんだ、海外で英語が使えたらかっこいいんだ、というイメージがありました。そんな中途半端な理由で留学して欲しくないと、親が心配したのかもしれません。目的がないなら留学をするなと釘を刺されました。

 

例えば英語活用能力について言うと、アメリカ人の小学生でもペラペラ英語をしゃべるわけです。その子たちの英語の方が、僕が一生かかって習得する英語よりも明らかに自然で上手なわけです。だから英語能力を上げて戦うのではなくて、自分の持っている技術を高めて戦いなさい、英語に惑わされるなと親に言われました。英語はただの手段であって目的では無い。そのことを肝に命じて、自分が学びたい宇宙工学の分野で一番の教育を求めないといけないと思いました。

 

大学選びは大学ランキングを指標にしました。アメリカ人は何でもランキングを出したがります。数字に表すことが好きで、住みやすい街ランキングなんかも出ています。競争を大事にする文化の表れかもしれません。大学ランキングについても、大学だけではなくて学部や分野ごとのランキングまで出ます。僕が高校生の頃はサーチエンジンが非力だったので、ヤフー検索のコツとかを授業を習っていた時代です。当然、情報収集は本でした。池袋のジュンク堂で US NEWS を買ったりして情報を集めました。自分の行きたい Aerospace Engineeringという分野のランキングを見つけ、毎年一番を取っていた学部は、アリゾナにあるEmbry-Riddle Aeronautical University(エンブリー・リドル航空大学)だったので、そこの学部に入ろうと決めました。

 

MITといった世界的に有名な大学も受験しましたが、全て落ちてしまったので、結局は一番行きたかった大学にしか受かりませんでした。そういうのも運命なのかもしれません。もしたまたまでもハーバードに受かっていたりしたら、邪念が入ってそっちに行ってしまったかもしれません(笑)

 

留学前に大変だったことどのようにそれを克服しましたか?

先ほども話しましたが、家族の説得はとても簡単でした。英語の勉強ではなく、宇宙工学を学ぶために留学したいと伝えたので親は反対する理由がありませんでした。金銭面についても、両親は何も言わずに払ってくれました。親にはとても感謝しています。

 

これは私の想像ですが、両親が海外に駐在していた間に、知り合いの子どもが留学するといったケースの話を聞いていたのでしょう。うちの子ども達が留学したいと言い出すかもしれない、と思って親は貯金をしていたのだと思います。僕は3人兄弟ですので、実際問題として、3兄弟全員が留学するのは不可能だと思います。僕は長男ですので、何でもできたというのはあると思います。仮に私に兄がいて、先に留学をしていたら自分は留学できなかったと思いますよ。それは本当に幸運だったと言うに尽きます。

 

推薦状については高校の先生に書いてもらいました。私が通った ICUHSにはネイティブの先生もいましたし、日本語で書いたものを翻訳してくれる先生もいたので特に苦労することはありませんでした。僕の在籍中は帰国子女と日本教育を受けてきた生徒の熟練度の差を考え、英語・数学・国語は4段階にクラスが分かれていました。中には日本語が第二言語で英語が第一言語というような生徒もいますし、全員に対して同じ授業をするわけにはいかないので、当然なことではあると思います。

 

英語に関しては4番目のレベルのクラスでもハリーポッターの原著を英語で読んだりするんです。僕は英語のクラスは3番目のレベルにいましたが、今思えばレベルは高かったのだと思います。当時自分が授業を受けているときはそんなこと夢にも思いませんけどね。英語で書く文章は日本語に比べてルールが多いですから、エッセイの書き方なども習いました。それは実際に出願時のStatement of Purposeを書く時にも役立ちました。そういう意味ではとても恵まれた環境にいたと思います。

 

他に何か不安や大変だったことはありますか?

英語については、僕は日本の平均から見ると英語ができるレベルですけども、焦りはありました。アメリカに行ったことがなかったので、どんな国か知らない不安もありました。

TOEFLも点を取るのに少々苦労しましたね。TOEFLは留学生の英語の熟練度を証明するための試験ですが、点数を上げるために、塾に2、3ヶ月くらい通いました。高校生は僕だけでしたから、おそらく社費留学とかでTOEFLが必要な人が来ていたのではないでしょうか。当時のTOEFLは文章読解がメインだったので、コツを掴めば簡単に点数を上げることができました。これは受験勉強の賜物だと思います。

最初に受験したTOEFLはとても点数が悪くて焦りましたが、とりあえずTOEFLは何回でも受けて基準点をクリアすればいいので、足切りを超えたところで勉強をやめました。

 

TOEFLより大切なのが、 SAT という共通の試験で、数学と英語の2科目でした。いわゆる、アメリカのセンター試験です。SAT試験は、高校3年生の時に受けました。TOEFL同様受験は何回でもできますので、一番いいスコアを送ります。そういう意味では1回勝負ではないので日本の受験に比べるとはるかに簡単だと思います。TOEFL足切り点を超えれば良いですが、SAT は満点に近ければ近いほど良いです。数学はとても簡単で、小学生でも出来るような数学でした。

 

ですが英語は本当に難しかったです。単語帳等を使って英語の点数をちょっとずつ上げましたが、これ以上は点が伸びないと気づいたので、勉強をやめました。ICUHS の同級生で、ネイティブレベルで英語を話す友人が難しいと言っていました。それを聞いて数ヶ月勉強しただけの付け焼刃の英語ではお話にならないと思い、努力することを止めました。諦めるのとは違い、まぁなるようになるだろうという開き直りに近いものです。おそらく2、3回はSATを受けたと思いますが、でもこれ以上点数は上がらないと思ったのでその後も無意味に繰り返し受験することはしませんでした。

 

日本を離れて留学することに不安はありませんでしたか?

特にありませんでした。アメリカの大学を受けて全てダメだったら、次の年にまた受ければいいかな、と思っていました。その時は日本の大学も候補に入れて。一般の人からすると留学は、知らない場所にいく勇気のある人がするものだ、という感覚があると思います。でも僕はそんなこと思っていません。日本人は、何かあれば日本に戻ることができるんですよ。だから留学は特別すごいことでは無いと思います。

 

どなたが言ったのか分かりませんが、「喧嘩するときは相手に絶対に逃げ道を作れ」という言葉を聞いたことがあります。 逃げ道をなくすと、冷静さを失ってムキになり信じられないような力を出すので、絶対に逃げ道は作れということです。喧嘩と留学を並べるのは乱暴かもしれませんが、留学については、逃げ道として日本に戻ることができます。結局は、日本に戻ることはできるし、日本の大学に行くことも出来るという思いがあったので、留学に不安や恐怖心はありませんでした。

 

両親から、あんたアメリカ行って大丈夫なの?と言われたこともありませんでした。親が不安がっていたら、子どもにその不安が伝わると思います。それを考えて、親はそのような態度を見せなかったのかもしれません。日本を旅発つ時も、いってらっしゃいと言われただけです。私は思い詰めるタイプではないので、失敗すれば戻ってくればいいやと思っていました。ただし失敗するとめちゃくちゃカッコ悪いので、留学したら留学したで絶対に頑張ろうと思っていました。実際、大学にいたときは人生で一番勉強したと思います。

 

実際に大学に行って、学んで良かったことを教えてください。

私の実体験からすると、学部から留学する必要は無いと思います。やはり、留学の目的は、自分のスキルを磨くことです。私がJPL に雇われたのは、英語が出来るからでは無く、エンジニアのスキルがあるから雇われたわけです。言葉のスキルではなく技術を評価されたわけです。大学の本来の目的は自分のスペシャリティを高めるため、技術を専門的に習得することです。ですが、実際に大学の学部の授業で学ぶことは、全て教科書に入っていることです。別に大学に行く必要さえないという考え方も一理あります。ホリエモンじゃないですが、自分で勉強しとけばいいじゃん、という意見も一理あります。

 

しかし私が学部留学で何も得ることが無かったかと言うと、決してそうではありません。私が留学することで得た1番のメリットは授業では無く、人との出会いです。

アメリカで多くの人に出会い、いろんな生き方を見て、日本では考えられないような人達に出会えたことは良かったと思います。

 

例えば、エンブリー・リドル航空大学の学生の半分ぐらいは、軍隊から奨学金をもらっている人がいて、彼らは軍服を着て学校に来ていました。あと、日本ではみんな大学に行くのが普通ですよね。でも、同級生の中には、家族の中で自分が初めて大学に来たという学生もいました。驚きました。自分が大学に行って、職について家族のために稼がないとダメなんだという人もいました。

日本で育っていると、そのような話を聞くことはあまり無いと思います。そして学生達の国籍もバラバラです。アフリカやインド、さらにお前の国どこにあるのって思う国から来ている人もいました。そのような人たちと出会えた事はとても良い経験になりました。

 

もう一つ大学で大切な事があります。それは、大学では出会う人のサンプルサイズが大きいということです。小学生、中学校はその近くに住んでいる人が集まるので、バックグラウンドも似たり寄ったりで、出会う人数も少ない、つまりサンプルサイズは小さいです。

大学になると県外からも多くの人が集まり、バックグラウンドも様々で、つまりサンプルサイズが大きくなります。アメリカの大学となると、海外からの学生も多いので、日本の大学に比べて更にサンプルサイズが大きくなります。面白いことに、大学を卒業して仕事を始めると、サンプルサイズが小さくなります。なぜなら、同じ会社で同じような目的意識を持った人と仕事をするからです。だから、大学というものはどんな人にとってもサンプルサイズが一番大きくなる時だと思います。その時に多くの人と出会うことによって、自分とは異なる生活、性格、考え方を学ぶ事が出来ます。

 

留学して何も苦労が無かったかといえばそうではありませんでした。外国人はJPLで働けないということがわかり、当時危機感を感じました。留学する前は、良い成績を取って卒業すればJPLに採用されるだろうと、安易に思っていました。アメリカは自由の国だって言うじゃないですか。それを信じ切っていた私は、留学前に一番大事なところを調べ損ねていました。

 

考えてみると当たり前ですが、国の機関だから外国人は働けません。外国人は日本の公務員になれないですよね、それと同じです。これはヤバイ、と思いました。ですがラッキーなことに、私が大学3年生の時に取った授業の先生がドイツ人だったのですが、昔はNASAで働いていたと言っていたんです。それを聞いて私は、この人はドイツ人なのにどうしてNASAで働けたんだろうと思いました。すぐその先生に話を聞いてみると、私は Ph.D.を持っていて、NASAが欲しい技術を持っていたから雇ってもらえたんだ、と話してくれました。そこで私も Ph.D. を取ろうと決断しました。以前からもPh.D.に興味がありましたが、先生の話を聞いてからPh.D.の取得が必要条件になり、Ph.D.を取らないと自分が留学をした意味が無いことが分かりました。

 

当時、大学3年生で将来のことを考える時期でしたので、その先生が思い出話をしてくれなかったら、私は大学院の重要さに気付かなかったわけです。巡り合わせが良かったなと思います。大学の同級生は大学1年生の時からインターンシップに行っている友達もいました。私も真似をしてボーイングロッキードという航空関係を探しましたが、最低でもグリーンカードほとんどは US CITIZEN(市民権)が必要という条件でした。日本にいる時にはそのようなことを全く知らなかったので驚きました。チャンスは一度失ったけど、チャンスを与えてくれる巡り合わせがあったこと。その出会いには本当に感謝しています。

 

残念だったこと、苦労したことはどんなことですか?

がっかりしたことで言うと、アメリカ人は思ったほど学力が高くなくて期待はずれでした。アメリカでは日本人が高校3年生で習う数学Ⅲや数学 C を、大学1、2年生で学習したりするわけです。日本ですでに教わった内容でしたから、僕は勉強しなくてもテストで点が取れます。大学2年生までは英語の勉強だと思って数学を受けていました。アメリカでさえ大学の授業のレベルは低い。それは逆に言えば日本の教育レベルが高いということかもしれないと、日本の教育を見直す機会にもなりました。

 

これは僕の感覚ですが、アメリカでは大学最初の1年間を乗り越える人が全体の70%ぐらいしかいません。日本では落第する人が何人かいるのか知りませんが、日本の方が少ないと思います。アメリカには SAT 等がありますが、基本的にはアメリカ人は受験勉強をせずに大学に入ってきます。日本人みたいに根詰めて勉強した経験が少ないんです。だから大学の早い授業のペースについて行けず、脱落していく人が多いんです。多くの人はそこで諦めて、這い上がれない。メンタルが弱い人が多いなと思いました。アメリカ人は何にするにしても口上手ですから、言い訳も上手です。僕はそんなに言い訳考える暇があったら勉強しろよ、とか思ってましたけど(笑)

 

メンタルが弱い、につながるかもしれませんが、アメリカでは高校生まで学校の送り迎えは親がします。日本だったら小学生や中学生が自転車等で通学するのが普通で、帰りにスーパーやコンビニで寄り道しますよね。アメリカ人はマザコンかと心配になるぐらい親が大好きな人が多くて、用事もないのに親と毎日電話する人も沢山います。そんな友人を見て、この子達は小学生かと思いましたよ。なんでそんな家族に甘えているんだと思いました。僕は日本から自分一人で覚悟を決めて来たのに、なぜこの人たちはたかが隣の州に住んでる親と毎日電話してるんだろうと思いました。そんなに精神が不安定なのかとも思いましたね。数年住んでいればそれはアメリカの文化なのだ、と理解出来るのですが、最初渡米した時はとても驚きました。

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Ph.D.の大学はどのように選びましたか?

僕はナビゲーションでPh.D.を取りたいと思っていました。先ほど話した大学ランキングではエアロスペース(航空宇宙工学)という分野ではランキングがありましたが、ナビゲーションはありませんでした。エアロスペースより細かい分野までランキングが出ていなかったんです。そもそも大学院選びにはランキングは重要では無く、指導教官が大事だということは聞いていたので、大学選びの時のようにランキングを指標にすることはしませんでした。

 

コロラド大学を選んだ理由ですが、それも運の巡り合わせです。私が大学4年生の時の先生がナビゲーションに関して強い大学院を数校、勧めてくれました。その先生もコロラド大学の卒業生だったのですが、結局はミシガン大学にいる先生と研究がしたいと思うようになりました。そして長い夏休みを利用してミシガン大学まで直接目的の教授に会いに行きました。

ミシガン大学はAnn Arborというとても綺麗な町にあり、この町なら住みたいなぁと思っていたのですが、面談が始まるや否や翌年からコロラド大学に移る予定だということを告げられました。その後帰り道にコロラド経由でアリゾナに戻りましたが、ボルダーという町もとても綺麗な場所で、キャンパスの目の前に広がる山脈の美しさに一瞬で心を奪われました。ミシガンからコロラドまで行くだけで20時間以上運転しましたから、中々気合が入っていたなと当時の自分を振り返って思います(笑)

 

幸運にもその指導教官と大学院で研究できることになったのですが、さらに幸運だったのはその指導教官が昔 JPLで働いていた経験があったことです。最初に携わっていた研究は、研究費がJPL から来ていましたので、研究している過程で JPL の職員と何人か繋がりができました。 コロラド大学には高橋というやつがいる、ということをJPLの何人かに覚えてもらいました。

 

JPL に働きたいと思ってアメリカに来て、 PhD研究の最初の研究費が JPLだったというのはすごいラッキーだったと思います。例えば再度学校に入り直して同じことを二度やれと言われても、絶対無理でしょう(笑)その研究は指導教員が書いたプロポーザルだったので、自分が書いたわけでありません。そのファンディングは2年だったので博士課程の途中で終わりましたが、その後3年間の研究費をスポンサーしてもらった小惑星ミッション(OSIRIS-REx)はJPLで働いている今でも継続して行なっており、無事に打ち上げも見届けました。現在は目的地の小惑星ベンヌを周回していますが、最初から最後まで見届けることができると思うととても幸運です。

 

先ほどから高橋さんが言われている、巡り合わせが良かったというのはなぜだと思いますか?

先ほども話しましたがサンプルサイズが多く、色々な人に出会って吸収する機会が多かったからだと思います。パーティーでも何でも誘われたら断らず、顔を出すようにしていました。あと、それ以上に大切なことは、自分が何をしたいかというのを伝えることです。これは日本人が苦手な事かもしれません。私も日本人の社会人と会う機会が多いですが、会社の名前を言ったり、名刺を頂いたりしますが、結局その人が何をしたいのかわかりません。個人として何者なのかを伝えることが大切です。私はアメリカに来て学んだことは、自分が何をしたいのか、何に興味があるのかを相手に伝えないと、相手から興味を得てもらえないということです。

 

私は物理法則で人生に役立つものはたくさんあると思っているのですが、物理法則で作用・反作用という言葉があります。英語ではアクション・リアクションといいます。リアクションするというのは受動的なものです。誰かが話してたら、それに反応する。というのは受動的なものですよね。リアクションというのは、野球に例えるとただ単にキャッチャーになってるだけです。

一方、アクションは能動的です。こちらからアクションを起こし、私はこういうことがしたい、将来何をしたいです、という話を能動的にします。すると相手は、こいつはこういう志を持っている人間なんだと把握してくれますし、聞いていて嬉しくなりますよね。

そのような人間は、相手の心を打つのだと思います。いろんな人に会った時、まず自分からアクションして自分は何者かを明確にすることで、どんどんリアクションが広がっていくと思っています。ただその場にいるだけではなく、自分のアクションを起こすことが大事。そこで初めて、相手から助けてもらえる可能性があるわけです。

 

私は昔から、自分自身が何をしたいかをとずっと口に出してきました。具体的に JPL で働きたいということを周りに言い続けてきました。そうすると、周りの人間から、高橋はJPLで働きたいんだ、ということを覚えてもらえます。すると周りから、JPLにコネがある人を紹介してもらえるというリアクションが入ってきました。もちろんラッキーという部分もあると思いますが、自分からアクションを起こす、自分が何をしたいかを伝えることが大事だと思います。何をやりたいかが分からないと、助けようがないですよね。

留学でどのような結果を得て、結果を得るためにどう動いたかを教えてください。

留学している間、特にPhDの間は研究を頑張るしかありません。エンジニアという職業はチームの職業なので、人間関係も大事です。あと、先ほどから繰り返していますが、自分からアクションを起こさないと、なにも得られません。

 

例を挙げると、ある学会に参加した時、ディナーの席でJPLの方が隣の席でした。初対面だったのでその人がJPLで何をしているのかよく分からない状態でしたが、私はその人に対して、僕は JPLで働くために留学に来て、今はPh.D.で研究をしていて将来はJPLで働きたいという話をしました。 もちろん突発的にそういう話をするのではなくて、自然な流れの中でやります。いきなり自分の夢を語り出すのは不自然ですから(笑)

 

すると、実はその相手の人は僕が働きたいと思っていた部署の部長で、高橋はやる気があるやつだと認識してくれたのでしょう、私がJPLに行くことを助けてくれました。これも自分からアクションを起こした結果だと思います。これは僕個人の見解ですが、私がやっぱり見てて気持ちがいいのは、目的意識を持ってる人や自分から行動を起こしている人です。そういう人たちのエネルギーは波及効果があるとおもいます。

 

留学の結果についてですが、私は大学の学部はあまり関係ないと思います。就職には大学院でやった研究や学会で発表した内容、また学会で会った人、そういう要因が大きいです。だから、大学院留学というのはとても価値があると思います。私の場合は、国籍の問題をクリアするためにも大学院留学をしなければいけませんでした。

 

お給料に関して博士課程を経て何かメリットはありましたか?

当然博士課程まで行けば学部卒や修士卒の学生よりも年収は高いです。アメリカでは普通、仕事のオファーがあるとまずは給料を上げてくださいと交渉します。引っ越し手当を増やしてくださいとか。私は何も言わずにオファーさえあれば何でもいいと言って、仕事のオファーを取りました。だから、お金の面で待遇が変わったか特にわかりません。

 

一貫した思いを持っていないと、周囲の応援度合いは変わってくるでしょうか?

研究内容は変わってもいいと思うのですが、最後のゴールはぶれない方がいいと思います。ぶれると、手助けしてくれた人も損だと思うのではないでしょうか。私はアメリカの大学院に留学したい学生からアドバイスを請われて手助けすることがありますが、そういう子たちが大学院を辞めたりすると、少し残念な気持ちになりますね。まぁ他人の人生なのでとやかくは言いませんが、せっかく手伝ったのだから最後までやってほしいという気持ちもあります。

 

私は初めからJPL で働きたいと言って変わらなかったから、私を助けてくれた人たちは見ていて気持ちが良かったんじゃないでしょうか。首尾一貫していたので助けてくれたのかなという気持ちもあります。個人的な感想ですが、助け甲斐がある人と無い人はいると思います。

 

今後どうしたいかをお聞かせください。

実は、今の仕事は趣味だと思っています。私みたいに宇宙の仕事をする人間からすると、宇宙の歴史は130億年あって、その中で自分の人生は100年だとすると一瞬なわけです。自分が生きている間に人類が火星に移住するだとか、地球外生命のサインを検出すると言った、宇宙の大発見を自分が全部見届けることができるとは思っていません。期待はしていますが、「それは時の流れに任せる」といった感じです。

 

研究するモチベーションとしては面白いですし、それはそれで素晴らしいことなのですが、それと同時にこんなでかいスケールで宇宙があるのに、自分の短い一生で全てを知ろうと思うのはおこがましいとも思っています。野心がある上で、宇宙のスケールに照らし合わせて謙虚にならないといけないなと思っています。今の仕事は趣味の延長線上で、少しずつ人間の知識に貢献できればいいと思っています。

 

だからそこまで宇宙の仕事に関することで野望はありません。部長になりたいとか偉くなりたいという気持ちもありません。むしろ偉くなるとエンジニアの仕事ができなくなるから嫌ですね。私は常にエンジニアとして計算しているほうが楽しいです。今やっている仕事では、色々なプロジェクトに関わり、色々な側面から宇宙を見ることが出来るのでとても満足しています。今は小惑星木星のプロジェクトにかかっていますが、星が変わると宇宙の違う側面が見えてきます。

 

宇宙以外にやりたいことと言えばビール屋さんを開くことです。ですがビジネスで成功したいともあまり思わないし、経営にも興味ありません。毎日行きたくなるようなビール屋さんが近くに無いので、自分で作ろうかなとか、そんな感じです(笑)もうかれこれ7年ぐらい家でビールを作っていますが、結構美味しく作れるんですよ。ビール好きが集まるお店で、ある程度の生活が出来れば良いなと思っています。

 

いずれにせよ、何かを作ることに関わっていきたいと思っています。作る仕事というのはゼロをイチに変える仕事だと思っています。否定するつもりは全くありませんが、お金を左から右に流して利益を得ることに、私は何もモチベーションを感じません。それは形がある物を何も作っていないからです。「私が作ったプロダクトはこれです」と言えるような、手に残る物を作り続けていきたいと思っています。

 

私が学生の時はJPL に憧れがありました。JPLは自分の手の届かない所にありました。ですが Ph.D. を通してエンジニアとしての能力も身についてきて、全てやりたいことは実現可能だと思うようになりました。何か成功したと人というのは、基本的なことを続けていった結果成功したのだと思います。今はゴールを設定して、着実にステップを踏めば何でも達成できるという自信があります。学生の時は JPL で働きたいということは大きなモチベーションであり、そこに絶対到達したいゴールがありました。そのような大きな目標を今立ててくださいと言われても難しいです。やりたいことが無いとか道がないとかと言いたいわけではなく、なんでも実現可能な範囲で物が動いている感覚があるということです。もう少しリラックスして人生と向き合うことができているということかもしれません。

 

問題は、ではいつ物事を行うのか、そのタイミングだと思います。何か大きな目標を言えるとかっこいいと思うんですが、特に無いんですよね。ビール作りをやりたいっていう話をしていると、友人からじゃあデザインを手伝いますよと、何かお手伝いしますよ、という人がいてくれます。これもやはりサンプルサイズを増やしてアクションを増やしリアクションを増やすということを続けている結果だと思います。世の中には、アインシュタインのように一人で式を解いてしまう人間もいますが、ほとんどの人間はチームで仕事をしています。人に頼るところ、自分でやるところ、そんな境界線も今は自分の能力が大体分かってきたので、割とはっきり見えるようになってきた気がします。

 

将来アメリカで何かしたいけども、一歩が踏み出せない人に、エールを送っていただけますか?

人間の50%以上はスタートしないと思っています。スタートした時点で半分以上にはなれると思っています。いや80%ぐらいかもしれません。動き始めた瞬間にトップ20%にいます。だから絶対に動いた方がいいです。考えるなとは言いませんが、動く方が大事ということを伝えたいです。考えることに時間を費やすよりは、絶対に動くことに時間を費やす方が良いです。先ほどのアクション・リアクションの話にもつながりますが、自分から動かないと始まりません。

 

英語の勉強について

僕は英語の勉強を全然してません。勉強してないと言うのは、実際に勉強していない訳ではなくて、勉強したと頭で思っていないということです。どういうことかと言うと、例えばTOEFL の点数といった途中にあるゴールというのはただの必要条件です。その勉強で燃え尽きてしまうのは本末転倒ですよね。英語に集中しすぎてエンジニアの勉強を怠ってしまうというのは、目的を履き違えています。

 

そのように付随してくる勉強、絶対にしないといけない勉強というのは時間を使わないといけないかもしれませんが、メンタリティとしてはランニングと一緒で惰性でやるぐらいがいいと思います。本気で集中して頑張るのではなく、とりあえずやらなきゃいけないなと。食器洗いと同じです。そこに気持ちを入れすぎると、人間は疲れてしまいます。

 

全てのことに100%の力で取り組むことはできません。だから、一番力を入れるところと、第2、第3と自分で優先順位をつけて把握することで、頑張りすぎないというもの大事だと思います。頑張ってしまうと、自分はこんなに勉強した!と言う事実に満足してしまいますから、とりあえず雑用を片付けた、ぐらいの感覚で英語を勉強すれば良いと思います。

 

目標について

目標というのは設定の仕方が大事です。私は JPLに就職する、というわかりやすい目標がありました。これが例えば年商10億円を稼ぐ、という風に目標を掲げたとします。でもそれって、何をどこからスタートしていいか、具体的にわからないですよね。 JPLで働きたいんだったら、宇宙の勉強をするとか、なんとなくわかります。ですがお金だけだと、何がしたいのか分かりません。

 

例えば麻薬を売ってお金を儲ける人もいますし、自動車を作ってお金を儲ける人もいます。同じ10億円でも、手段が全く異なります。そこのコアになる、何をしたいのかという動機が大事です。高い目標を立てることは全然構わないと思います。 例えば自動車だったら機械工学だったり材料工学だったり、色々道が見えてきますよね。そのように具体的なステップが描ける目標がいいと思います。抽象的な目的と具体的な目的を認識出来ないと、目標設定がぶれてしまうかなと思います。

 

話は戻りますが、私は昔から自分がやると決めたら、何も考えずに動く性格でした。今、アメリカに来て15年経ちますが、改めて、何事もまず動いた方が良いと思います。失敗することもありますよ。でもほとんどの人は、動かない。考えてない人は動かないし、考えている人も動きません。考えながら動ける、もしくは動きながら考える人間になることが大事だと思います。僕も高校生の時にとりあえず行動に起こしてアメリカに来た。あの時の自分は無知でしたが行動力があった、それは今でも誇れることです。

 

編集後記

高橋さんと初めて知り合ったのは、ロサンゼルスにあるUCLAで開催された日本人むけの研究セミナーだったと思います。私の研究発表が終わった後、面白かったよ!と高橋さんの方から笑顔で声をかけてくれました。ちなみに私は、海洋生物のイカに関する研究を紹介しました。

後日、私は高橋さんが行うJPLツアーへ参加し、夜にはご自宅で自家製ビールを頂きました。出来立てホヤホヤのビールです。市販のものより香り豊かで美味しく、感動したことを覚えています。その時に高橋さんが話してくれた留学の体験談や苦労話がとても面白かったので、改めてインタビューをお願いし、本記事にまとめました。

高橋さんはJPLで働くことを夢見みて大学から渡米、そして見事にJPLへ就職し、いまは衛生軌道のナビゲーションを担っています。留学から就職までの約10年間を振り返って高橋さんは、大切なことは何事もまず行動し、自分のやりたい事や目標を周りに話す、つまり自分からアクションを起こすことだと語っています。さらに高橋さんは、宇宙はスケールがとても大きく、自分の短い一生で全てを知ろうと思うのはおこがましいとも語っています。高橋さんは情熱と謙虚さを併せ持っているからこそ、周りの人達から応援され、サンプルサイズに比例して素晴らしい巡り合わせを掴んできたのだと感じました。

 

インタビュアー: UCLA 笘野哲史