文系学部卒からのアメリカ理系大学院進学!そのモチベーションと戦略とは?

新井紀亮さん

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基本情報

名前:新井紀亮(あらい のりあき)

所属(現):カリフォルニア工科大学材料科学科博士課程

最終学位:学士(法学)

年齢:30歳

性別:男

出身地:長野県松本市

経歴

2012年:慶應義塾大学法学部政治学科卒業

2012年:東京理科大学第二部物理学科編入

2013年4月:理化学研究所 パートタイマー(一般事務)

2013年:技術系中小企業 非常勤研究員

2014年5月: 理化学研究所 パートタイマー(実験補助)

2014年:東京理科大学第二部物理学科退学

2014年:結婚

2014年10月:理化学研究所 テクニカルスタッフII

2015年:理化学研究所および技術系中小企業 退職

2015年:カリフォルニア工科大学材料科学科博士課程入学

2020年:カリフォルニア工科大学材料科学科博士課程(予定)

 

インタビュー

なぜ留学に至ったのか

アメリカの大学院を志したきっかけはなんだったのでしょうか?

これに答えるのは結構恥ずかしいのですが(笑)。慶應大の学部3年の9月くらいには普通に就活をしていて、自分が何をしたいのか考えていました。その時ちょうど『ソーシャルネットワーク』の映画を見て、インターネットの世界で Facebook を作ったマーク・ザッカーバーグをかっこいいと思いました。Web上のサービスに限らず、製品など、モノを作って世間に貢献するのってかっこいいなと思ったんですよね。その製品を作るには技術が必要で、最先端の技術があるのはアメリカだと思いまして。アメリカに行くには、アメリカの大学院に入るのが手っ取り早いかなって思ったのがきっかけです。

本当に単純すぎて誰にも言ったことがないんですよね(笑)

 

慶應大の法学部政治学科から、理系への転向かつ海外留学という道を選んだわけですが、何から始めたのでしょうか?

そこから逆算して、どうやったらアメリカの大学院に行けるかを考えました。自分は、目に見える形での理系のバックグラウンドがなかったので、アメリカのLiberal artsの学校のPhysics majorの学生と同等に授業をとり、かつどこかで研究経験を積まないといけないと思っていました。ただ、自分は理系の大学に編入して卒業研究するまで在籍できる金銭的な余裕はないとわかっていたので、昼間は研究経験を積み、夜は学校で勉強するという計画を立てました。

 

高校の時に物理が得意だったので、慶應大卒業後、東京理科大の第二部物理学科(以下、理科大夜間)に編入しました。なので、学部4年の4月(2011年)から日系企業の採用が始まっていましたが、もうその頃には就活はせず、理科大夜間の編入のための勉強をしていました。

 

理科大夜間編入後から実際の受験までの道のりはどういうものだったのでしょうか?

家から遠くないところに、理化学研究所(以下、理研)がありました。昼間研究するために、どこか当たるといいなと思って理研の研究室のパートタイマーに複数応募したのですが、ことごどく落とされました(笑)。自分は慶応大法学部卒業とはいえ理系の学生としては1年目ですから、使い物にならないですし。でもめげずに、ちょっと興味があるなと思ったら応募していました。理科大夜間編入のちょうど1年後の2013年3月に面接に呼ばれ、やる気だけはあります、とアピールした結果、そこの研究室に所属することになりました。本当、拾ってもらったに近かったですね(笑)。そして、研究室の先生が経営する会社でも非常勤として働くことになりました。だから当時は、午後3時くらいまで理研で働き、そこから理科大に行って10時くらいまで授業をとるという生活を1年ぐらいしました。

 

学校選択の基準・決め手など

自分はそもそも受験できる大学院が少なかったんです(笑)

理科大夜間を退学した後(2014年)に、理研の先生が、私のことをUniversity of Chicagoの先生に紹介していただき、自分のバックグラウンドについて確認する機会がありました。その時、どうも理系の学士がないとアメリカの大学院入学は難しいと聞きました。アメリカの大学院の出願条件の中で、一番最初によく来るのが”理学、工学のbachelor degree or equivalent”なのですが、学位はなくとも理科大で授業を取った自分は”equivalent”に該当すると理科大を退学するまで思っていました。でも実は、理学、工学の学士かそれ相当の資格を持っていなければならないという意味だとその時やっと気づいたんですよね。

 

なので、自分のバックグラウンドだと応募できるのはカリフォルニア工科大学(以下、カルテック)とマサチューセッツ工科大学(以下、MIT) しかありませんでした。

例えば、カルテックは違う書き方をしています。(”As preparation for advanced study and research, entering graduate students are expected to have a thorough background in undergraduate mathematics, physics, and engineering.(http://ms.caltech.edu/academics/grad/ms))

学部(レベル)のPhysicsのバックグラントがあればいいとなると、自分はそれに該当しました。さらに、カルテックの初代学長のロバート・ミリカンは、実は、学士は西洋古典文学の学士で卒業しています。「1891年に西洋古典学の学士号を取得。オベリン大学で2学年まで修了した時点で、ギリシア語の教授に「ギリシア語で優秀な者なら誰でも物理学を教えられる」と物理学の講師を頼まれた。それまで物理学には全く縁がなかったが、夏休み中に勉強し講師を務めるようになった。これがきっかけで物理学を志すようになった。(wikipedia)」だから、カルテックにはそのDNAがあったんですよね、これは勝手に自分が信じてるだけなんですけど(笑)

 

ちなみに、カルテックを初めて知ったのは、カルテックの先生の講演を理研で聞いたときでした。その人の研究が面白いと思い、後にその先生に連絡をして、研究の話などをしました。MITの先生からは連絡しても返信がなかったので、無理だろうなと応募した時点で諦めてはいました。どちらも記念受験だと自分では思っていました(笑)

 

留学前に大変だったこと、どうやって克服したか

留学前に大変だったことは何でしたか?

自分をどうアピールするかについて、(文系学士から理系アメリカ大学院という)前例がないので、ゼロベースで考えなければいけませんでした。つまり、慶應政治学科を卒業してからの2年間で、どうやって、理系の学部4年間ないし修士2年間勉強した学生と遜色ない実績を、目に見える形で作れるかと、一から考えました。Resume、志願理由書、推薦状のどれをとってもです。他の人から考えると無謀だと思われていたかもしれませんね。実際、当時会った日本の先生には、無理だよとは言われないまでも、会話からそう思われているのが分かりました(笑)。

 

その苦難をどうやって克服しましたか?

すごい難しい道のりなのはわかっていました。それでも、留学までの道のりを逆算して計画を立てて頑張りました。例えば、実は理科大夜間の合格と同時に、早稲田大学工学部(以下、早稲田)も受かっていました。周りの人からは知名度の高い早稲田に行ったほうがいいよと言われていました。でも、夜間の授業がない早稲田では、2年間授業のみに時間を費やすのに対し、理科大夜間では、昼はバイトとして研究所に入ることができます。もちろんいろんな人にアドバイスをされましたが、自分の計画を信じて理科大夜間を選びました。

 

精神的な意味では、準備の期間は自分は合格できると信じ切っていたので、それが本当大きかったと思います。やると決めたからには、自分自身がコントロールできない部分はもう心配しないようにしました。自分に任された、自分にできることを精一杯やろうというのが自分の当時の心境でした。例えば、昼は理研の研究を精一杯頑張る。理科大夜間の授業の成績は絶対に最高のS評価を取り続ける。TOEFLとかGREとか志願理由書とかも、自分にできることをひたすら精一杯頑張る。家族や理研の先生方がサポートしてくれたのは、本当大きかったと思います。

でも、今となっての後悔は理系のBachlorがないとほとんどのアメリカの理系大学院に入れない事実をもっと早めに知っておくことだったと思います。

 

そのモチベーションはどこから来ていたんでしょうか?

(留学のきっかけである)『ソーシャルネットワーク』の映画だと思います。 そのDVD を持っているのですが、何回も見ました(笑)。あれが不思議と自分のモチベーションを保ってくれました。マックザッカーバーグかっこいいなって(笑)。あの映画は本当好きなんです。

 

アメリカの大学院受験について、周りからの反応はどうでしたか?

自分は、慶應大を卒業してから、カルテックに入学するまでの3年間で、今の妻と付き合い、婚約して、結婚までしました。付き合うときにはすでに留学すると決めていました。彼女は国家資格を持っており、それで働くと当時は決めていたので、長い年月を経て説得した形になったと思います。もしかしたら今でも日本にいたいと思ってるかもしれませんね。今でも覚えていますが、2015年3月24日にカルテックから合格をもらったときは、妻はすごい喜んでくれました。一緒にしゃぶしゃぶを食べにいきましたね、すごい応援してくれてたんだなと思いました。

幸いにも自分の両親、彼女の両親、理研の先生方もアメリカ留学を非常に応援してくれていました。推薦状も理研の3人の先生から頂きました。環境には恵まれていました。

 

大学(大学院)で学んで良かったこと、留学時にやって良かったこと

材料科学を学べてよかったなと思います。材料科学はこれからすごい大事だと思いますし、すべての技術のベースだと思っています。

 

材料科学に興味をもったのは、理研の先生が経営する会社で働いてた時でした。その会社の、40~90℃の廃熱で電気を生み出すという技術を聞いた時に、そんな低温で電気を生み出すなんてすごいな、と直感的に感じました。その会社で、自分は海外からの問い合わせの担当もしてたのですが、いつも「コストはいくらか」という質問を受けており、それがひとつの壁になっていたと思います。使われている材料や、その材料の加工費用によるコストを抑えることができれば、さらに製品が普及していくと思いました。だから、理論上は人の役に立つ技術でも、製品として世の中に出していくにはより安価な材料で作らなければなりません。

 

そこで、製品として最大のパフォーマンスを出すために、また、安くあるために、どういう材料・製造プロセスを使えばいいかを考える「材料科学」に興味を持ったんですね。大学院でその「材料科学」を学べて、今の研究室でも材料製造プロセスに関連した研究をできているので、すごいよかったなと思います。

 

また、自分は研究室選びを丁寧に行いました。カルテックに着いた初日に、自分の研究内容と合っていた、第一志望の先生に挨拶をしました。定期的にグループミーティングにも出ており、当時はここに入ると決めてはいたのですが、ちょっと一歩踏みとどまって他も見ることにしました。研究内容だけではなく、研究室の雰囲気も考慮して選ぼうと思いました。指導教員との相性や、研究室の学生の雰囲気とかです。他の研究室のグループミーティングに参加したり、話を聞いてみたりした結果、現在所属している研究室が合うなと思いまして、そこに所属することになりました。

 

留学中・留学後にガッカリした内容(卒業後の就職、授業内容など)

カルテックに来てガッカリしたことはありますか?

カルテック でガッカリしたことはほとんどないですね。それは自分だけじゃなくて妻にとってもです。カリフォルニアは気候もよく、 カルテックにはSpouse Club(大学院生やポスドクの配偶者の集まり)もあり、奥さんが楽しめる環境もあります。また日本食レストランやスーパーもあるので、大変過ごしやすいです。

 

ただ、一つ挙げるとすれば、自分の出来なさにがっかりしました。

例えば、アメリカの大学院留学をしている人のブログ記事では、みんなが言うほど大変でもない、頑張ればできると書いてる人が結構いると思うのですが、自分は本当に正反対でした。自分の所属する材料科学科の学生は10人ぐらいいるのですが、彼らに比べて自分は頭の回転も遅く、記憶力もなく、極めつけに材料科学のバックグラウンドもありませんでした。それで劣等感しか感じなかったですね。できない自分に本当がっかりしました。

なので、研究室での自分の立ち位置を確立するのに大変苦労しました。最初1年間は、一人一人の個が目立つ少人数のグループで、自分のvalueを出すのに苦労しました

 

その中でどうやって研究室での立ち位置を確立したのでしょうか?

これは、留学のなかでは大変苦労したと思います。 みんな頭の回転が速くて弁が立つわけです。でもある時から、実際に証明できる実験が究極だと思ったので、実際に手を動かして、結果をもって証明することをしました。実験屋というキャラクターを研究室で築いたんです。自分には実験屋としての自負があって、これには誰にも負けられたくないと思います。

 

将来の進路についてと、それに向けて現在どう動いているか

卒業の進路としては何を考えていますでしょうか?

卒業後にやりたいこととしては、今の研究している技術を使っての起業です。

いま研究室で、ある病気の診断と治療を短時間で行えるデバイスを作ろうとしています。従来のやり方では、その病気の診断に24時間また数日以上かかっているため、治療が遅れ、致死率が高いのが現状です。その診断の短時間化のための技術開発に取り組んでいます。もしこの技術開発がうまくいけば商業化できると思っています。

 

もしこれがうまく行かなかった場合には、ウォルトディズニーの研究所で働きたいと思っています。自分はディズニーが大好きで、結婚記念日もウォルトディズニーの誕生日なぐらい大好きなんです(笑)。ウォルトディズニーは僕がカルテックに来た2015年と翌年の2016年に、材料科学者のインターンシップを募集していいたのですが、2017年以降全くなくなりました。そして、Linkedlinを見ても、ウォルトディズニーのMaterials scienceの人ってすごい減ってきています。なのでもうウォルトディズニーは材料科学に興味はないのかな、とも思っています。

 

それだけ好きなウォルトディズニーより、起業が第一志望なのはどうしてでしょう?

例えば、自分がウォルドディズニーを求めていても、募集がなかったり、またウォルトディズニーが自分を求めていない場合は(就職が)難しいじゃないですか。だから、目の前のことを頑張り、そこから開けてきたものをやればいいと思っています。ウォルトディズニーへの就職のために準備するなら、もう少し自分の研究内容がウォルトディズニーに近いものになるように選んだほうがいいと思うのですが、そんなことをしても、自分の就職のタイミングでディズニーが求めていなかったら意味はありませんから。

 

今回、インタビューを受けてくださってありがとうございます。自分のやりたいことに向けて、一般的なレールを外れて自分の道を進んでいる新井さんに感化されました。

レールを外れるっていいですよね。一回外れるとレールに乗らないといけないという不安がなくなるので、自由な選択ができるようになります。例えば、新卒採用も自分はなかったです。その後はもう自分の後悔のない、自由な選択ができるようになったと思います。

 

編集後記

新井さんは、私にとってカルテックの材料学科の一つ上の先輩です。改めて留学までの経緯や将来の話を聞いて、『ソーシャルネットワーク』を見たときから今まで、「製品」を作りたいという思いを貫き、それに向け邁進している新井さんに大変感化されました。自分のバックグラウンドや、”一般的な”進路設計に関係なく、やりたいことを見つけ、前例がなくてもそれを実現していく新井さんの話を共有することで、少しでも「培った能力」や「前例」にとらわれない選択をしようとしている人たちへの励みになればと思います。(少なくとも私は励みになりました(笑))

インタビュアー:成田海

 

 

 

米国Ph.D.留学に修士号は不要!?−自分の研究テーマを追求して−

馬渕祐太さん

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基本情報

所属(現):Cornell University, Department of Neurobiology and Behavior, Ph.D. Program

最終学位:学士

性別:男

出身地:千葉県柏市

経歴

2017年 北海道大学理学部生物科学科卒業

2017年 Cornell University, Department of Neurobiology and Behavior, Ph.D. Program 入学

 

インタビュー

日本国内の大学の修士課程を修了後にPh.D.留学する学生に比べて、学部卒の直後にPh.D.留学する学生は多くありません。北海道大学理学部生物科学科(生物学)を卒業後すぐにコーネル大学(イサカ,ニューヨーク州)のPh.D.課程に進学した馬渕祐太さんにお話を伺いました。

 

留学に至った経緯を教えてください。

中学生・高校生の頃は周りから言われずとも比較的勉強はする方だった気はしますが、改めて考えると、好きで勉強していたというよりは受験のためにとりあえず勉強していたという感じだったと思います。そうした中でも、生物学の勉強には面白みを感じていました。それはおそらく、小さい頃から漠然と生き物の多様性に興味があり、生物学という学問を学んでいくうちに、多様性がなぜ、どのように生み出されるのかを知りたいと考えるようになったからだと思います。その時は、そうした疑問を明らかにするのに、研究者という道もあるんだなというくらいに考えていて、それから大学受験をして北海道大学に入学しました。

 

受験が終わって、やっと自分の好きなことを突き詰めて勉強できると考えていた私は、札幌での初めての一人暮らしを謳歌しつつ、自分なりに研究者になるためのキャリアパスについて書籍などを通して情報集めを始めました 。そこで海外で博士号を取るという道があることを知り、なんとなく面白いと思いました。 中学生時代にオーストラリアに海外研修に行ったのですが、すごく楽しかったという原体験の記憶があります。もともと受験科目としての英語は得意だったこともあり、海外で研究するのもありだなと思い始めました。調べるうちに、大学院の出願には、例えばGPAや推薦書など、日本の受験にはないプロセスが色々とあり、何から手をつけていいのかわからなかったため、大学1年生のうちは英語の勉強を軽くするくらいの準備しかしていませんでした。

 

そんな中、大学2年生の時に米国大学院学生会主催の海外大学留学説明会が北海道大学でも開催されていることを知り、参加することにしました。その説明会で、当時南カリフォルニア大学に留学されていた生物学系の先輩に具体的な体験談を聞くことができました。例えば、日々の研究生活でどんなことをやっているかということや、アメリカの博士課程では給料をもらいながら研究ができるというような事も知り、ますます海外の博士課程に進み研究する事を目指すようになりました。

 

学校はどのように選択しましたか?

当時は知識が十分ではなかったのですが、アメリカには生物系の研究に強い大学や研究所がたくさんあると本やウェブサイトに載っていたので、そうした情報を信じて、留学先はアメリカがいいと決めていました。

 

最終的に出願先は6校ありました。学科のレベルはもちろん考慮しましたが、それよりも自分のやりたい研究ができそうかどうかを基準にしました。大学3年生の時に生物系の中でも特に神経生物学に興味をもち、4年生の卒業研究でもその分野のラボに所属し、日々の研究や学会発表を通して、本当に自分のやりたい大きな研究テーマは何かという方向性について見つめ直しました。そこで、出願が迫っている時期だったのですが、自分のやりたいテーマは雄と雌の行動の性差であると思い至り、行動の性差の神経メカニズムの研究をしているアメリカのラボに絞って大学を探し始めました。

 

そのテーマ、あるいはそれに付随した研究ができるラボが2つ以上ある事を最低条件として探した結果、最終的に6校に絞られました。というのも、アメリカの生物系の博士課程では1年目に複数のラボのローテーションを行ってから所属ラボを決めるので、本命のラボが1つしかなかった場合、そこに入れなかったりそこの先生と合わなかったりすると悲惨なので、そのように選びました。

 

出願して実際に受かった複数の大学の中からコーネル大学を選んだのですが、その理由はいくつかあります。一つ目は出願時にコンタクトをとった興味のあるラボの先生が丁寧にやりとりをしてくれたことです。これから長い研究生活を一緒に送っていけるかどうかということは大事だと考えていたので、実際に会って話してみても凄い良い人達だったことは大きかったです。二つ目はVisiting Weekendという書類審査を受かった候補者(出願者150人中10−15人ほどに絞られた)が実際に大学に呼ばれてインタビューを受けるイベントがあるのですが、そこでコーネル大学神経科学部門では魅力的な研究をされている色々な先生たちがいるという事を、実際にお話をする中で知ることができた事です。三つ目は自分が入学する最初の年に、神経科学科と工学部が連携して、NeuroTechという神経科学分野の研究に必要な技術開発や応用を目指す部門が設立されたことで、分野横断的な研究ができるという強みがあった事です。

 

留学するにあたり、何が大変で、どうやって克服したのかを教えてください。

留学前に一番大変だった事は、日本の大学での卒業研究と留学準備との両立でした。留学の準備にも、書類作成や入学のためのGRE(Graduate Record Examination)という統一試験や英語の試験であるTOEFLの勉強など色々とやることが多く、マルチタスクの処理能力が求められました。GREは北海道では開催されず、東京まで行かなければならないなど、立地の不便さを感じることもありました。

 

卒業研究については、それ自体をクリアするのが大変だったというよりは、(実現しませんでしたが)卒業するまでに論文を1本書いておきたいという思いが自分にあったために日々体力勝負な状況でした。3年生からラボに出入りして実験の基礎を固めて、4年生でもそこでお世話になったラボで卒業研究に取り組みました。そのラボの先生がとても協力的で、4年生のうちから学会発表をする機会もいただきました。しかし、その学会発表も準備が大変で、出願先候補のアメリカの大学を訪問する直前に東京で発表があり、発表の前後で訪問先の先生たちとやりとりをするという状況でした。

 

自分の場合、大変だったことを一言で言えば、同時にやらなければならないことが多すぎたということです。ちなみにアメリカでは、学部を卒業後、大学院に入学する前に1−2年の準備期間(gap yearと言います)を取る学生が多いです。その間は、ラボのResearch Assistantととして働く人が多く、雑務をこなしつつ研究を行い、経験を積んで、大学院に出願します。

 

大学で学んでよかったこと、留学時にやって良かったことは何ですか?

まだ留学期間としては2年弱なのですが、その中で一番良かったと感じる事は環境面です。日本にいる時にはあまり意識していなかった事なのですが、日本で博士課程に進むというと周りからは「お疲れ様」という雰囲気が少なからずあるように思うのですが、こちらの博士課程ではそういった雰囲気は一切ありません。学内だけでなく、地元の方からも研究頑張ってね、といったようにむしろ尊重されているように思います。また、世界中から自分と同じく神経科学を学びたい同年代の学生が集まるので、お互いの研究や将来やりたい研究について熱く語れる刺激的な環境があることを何よりも素晴らしいと感じています。さらに、私の所属する学部は比較的小規模ではあるものの、神経科学で独立した学部が形成されているので、さまざまな分野の専門家がおり、技術的な協力や研究上の密なアドバイスも受けやすい環境が整っています。

 

日本に比べて金銭面でのサポートも充実しています。私の学部では、博士課程1年目は大学からの授業料、生活費、医療保険費といった経済的サポートが全員に保証されています。自分は日本国内の船井情報科学振興財団から2年間の奨学金を得たのですが、大学の規定で1年目の大学からのサポートと合わせた二重受給が禁止されているので、1年目は大学からのみ奨学金を受給をしました。船井情報科学振興財団は奨学金の受給に関して、非常にフレキシブルに対応してくださるので、二年目以降は卒業要件に含まれるTA(Teaching Assistant)やRA(Research Assistant)として働き、大学や指導教官から給料をもらう以外のタイミングで、奨学金を受給をすることが可能です。

 

働き方についても、人それぞれの生活スタイルが許されている雰囲気があることはいいなと思いました。これはラボによると思うのですが、自分のラボでは特にコアタイムのようなものは設けられておらず、自分のペースで研究に打ち込めることは自分にとって合っていました。

 

また所属するラボの先生の推薦で、この夏にウッズホールにあるマサチューセッツ海洋研究所(MBL)の8週間のサマーコースに参加することが決まっています。色々な実験手法や実験動物の実習を体験できるだけなく、学生や研究者たちとのネットワークを作ることができる貴重な機会だと思うので、今から楽しみです。さらに、ラボの先生と一緒に研究費獲得のための計画書をこれから書く予定で、そのような研究者として必要なスキルも学ぶ機会があることもありがたいです。参加費は100万円を超えるので非常に高額ですが、出費を厭わず、そうしたコースに参加する機会をくれる指導教官には感謝しています。

 

逆にガッカリだった内容はありますか?

先ほどの生活スタイルの話と関連するので矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、働かない人は働かないというところが残念に感じました。全然働かない人も一定数いるということが、日本と比べれば目立つところだと思います。

 

ちなみにコーネル大学があるイサカはニューヨーク州の中でも北のかなり田舎の方に位置しています。土地の不便さに関しては来る前から覚悟はしていたので、そこまでガッカリはしませんでした。夜中に一人で歩いていても全く問題ないほど治安が良いので、生活面で大変と思うところはさほどありません。寒さについては学部時代に北海道に住んでいたのでそれほど気にはなりませんが、夏の暑さだけがかなり辛いです(笑)

 

留学でどのような結果を得て、結果を得るためにどう動いたかを教えてください。

これまでの2年間の中での話ですが、まず結果として伸び悩んだのが英会話力で、思ったよりも上達しませんでした。これは自分がもっとパーティなどに積極的に参加するなどソーシャライズするように動くべきだったと思います。これは今後の課題です。

 

一方の研究面については順調で、面白い実験データが出て来ています。これは具体的に工夫したというよりも、日本にいる時と同じようにとにかく研究に打ち込みました。日本にいる時と変わった点は生活習慣くらいです。日本では朝9−10時にラボに来て深夜に帰るという夜型スタイルだったのですが、アメリカでは朝型の生活スタイルに切り替え、朝5時半に起き、6時過ぎにはラボに着き、夜の8時には帰宅しています。結果としてラボにはメンバーの誰よりも早く着き、一番最後に帰るようになりました。

 

あと、家から大学まではバスで通学するのですが、朝一番早い便に乗ることでラッシュに巻き込まれるのを防げるという利点もあります。毎日朝一のバスに乗るため、何人かいるバスの運転手さんが全員自分の顔を覚えてくれていて、止まる合図を出さなくても、自分の学部の前の停留所に止まってくれます(笑)他には、朝大学のジムに行くと空いてる利点もあります。

 

ただ、この生活習慣の変化が研究成果に直接結びついているというよりは、とにかく毎日コンスタントに研究に取り組むということが大きいと思っています。根性論に聞こえるかもしれませんが、良い結果が出ようと出なかろうとコツコツ働くのも、研究を進める上で大切なことなのかなと勝手に思っています。また私の場合、自分一人で研究していると視野が狭くなってしまうので、こまめに指導教官にデータを見せるのはもちろん、同じラボのメンバーだけでなく、同期や友達や学部の上級生、Committee Member(自分の卒業論文を審査する先生方)にも研究の話を積極的にして、フィードバックをもらうように心がけています。

 

馬渕さんは将来はどうしていきたいですか?

アカデミアに残って自分のやりたい研究を続けて行きたいと考えています。今自分の興味のあるテーマは性差や社会行動の神経メカニズムなのですが、自分が取り組んでいく研究の方向性をより具体的に今後も考えていかなければならないと思っています。学位取得後はポスドクになると思うのですが、今は特にアメリカのなかで探したいと考えていて、ポスドクとしてどうしても日本に戻りたいという希望はありません。最終的にはPI(Principal Investigator)として自分のラボを持ちたいと考えています。どこの国で研究室を持ちたいという希望は現時点ではないのですが、アメリカやヨーロッパでPIになれるだけの英語力は今後身につけなければいけないと思っています。

 

編集後記

私にとって馬渕さんは北海道大学理学部の行動神経生物学(旧・行動知能)講座のいちおう後輩にあたります。私がアメリカ留学中に一時帰国で北大に遊びに行ったときに、学部3年生の彼とはじめてお会いしたので、直接の後輩というにはおこがましいのですが。

 

その頃はまだ彼は卒業研究前でしたが、すでにラボに通って実験に打ち込んでおり、非常にself-motivatedな希有な学生という印象でした。その頃から学部卒ですぐにPh.D.留学を考えているということを当時の彼のボスからかねてから聞いておりました。少なくとも私が北大の理学部生物科学系に在籍していた当時、学部卒でアメリカにPh.D.留学した学生は聞いたことがありませんでした。彼は4年生の秋頃に入学試験の準備のために候補の大学をツアーしてまわっており、Caltech神経科学系のラボにも訪問するということで、そのときに私の友人達の力も借りて出来る限りの協力をする機会がありました。

 

やりたい研究のために必死に頑張っていた彼が最終的にCornell大学への入学を決めたときは、私も大変嬉しかったです。そんな彼の近況報告と、詳しく聞けていなかった留学の経緯までもあらためて聞くことができて、個人的にとてもエキサイティングなインタビューでした。非常にタフな彼ですが、これからも健康を崩さず、研究者人生を豊かなものにしていってもらいたいと願います。

インタビュアー:冨菜雄介(Caltech)

 

 

日本にいたら見えなかった世界!ハリウッドで活躍する美術監督

鈴木智香子さん

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基本情報

所属(現):Freelance Hollywood Art Director

最終学位:MFA

性別:女

出身地:愛知県名古屋市

経歴

2000年 San Francisco State University, BA in Theatre Arts 卒業

2004年 Carnegie Mellon University School of Drama, MFA in Scene Design 卒業

その後ハリウッドでフリーランス 現在に至る

2014年 SHOWTIME “House of Lies”でエミー賞授賞

後の経歴は↓をご覧ください!

www.chikakosuzuki.com

 

インタビュー

なぜ留学に至ったのか

高校時代、当初は大学では大好きな日本史を勉強しようかなと思っていました。ただ、大学進学を見据え自分に欠けているのは何だろう、伸ばさなきゃいけないのは何だろうと考えた時、出てきたのが英語でした。それも高校までに習う読み書きのレベルではなく、使える英語を。そうすると、アメリカに行ってしまった方が早いなと。その当時は、将来的にアメリカで働きたいなどという明確な目標があったわけでもなかったと思います。もともと、親の影響で小さな頃から洋画を見たり洋楽を聴いたりして育ったので、アメリカの文化にも興味がありました。なので、アメリカの大学に行くというのは大きな決断をしたという感じもなく、思いのままという感じでしたね。日本史は大好きでしたが、特に当初日本が好きというわけでもなかったですし(笑)

 

学校選択の基準・決め手など

アメリカの大学に行くと決めても、いきなり入学するのは無理だったので、高校卒業後は地元名古屋の英語の専門学校を通して、1年間ほどUniversity of California, Davis(以下、UC Davis)のELSプログラムで英語を学びました。週末にはよく電車を使ってサンフランシスコに遊びに行っていたので、San Francisco State University(以下、SFSU)は身近に感じており、それで進学先として選びました。色々なところに行けるし面白そうだな―という理由で入学時は報道関連の学部を選んだのですが、なにせ報道なので授業がどれもお堅くて(笑)自分はもっと娯楽性の高いものが向いてるなーと思い、途中でTheatre Artsの学部に変わりました。

その後Carnegie Mellon University(以下、CMU)の大学院に進学を決めるわけですが、SFSUのひとりの教授との出会いが私の人生を変えました。SFSUでTheatre Artsに移った最初の学期にその教授、John Wilson先生の授業を取ることになりました。本当は別の授業を取りたかったのですが、その授業がたまたま満席で取ることができず、彼の授業を取ることにしたのです。でもこれが運命というのか、彼が本当に素晴らしくて、それで本気でブロードウェイのセットデザイナーになろうと思ったのです。ブロードウェイのセットデザイナーになるには、まずこの演劇の分野で全米でもトップ3の大学院に行かないといけない。Yale University、CMU、New York Universityの中で、CMUはWilson教授が卒業していたこともあり、CMUを選びました。

 

留学前に大変だったこと、どうやって克服したか(金銭面、家族の説得、推薦状依頼など)

金銭面について、SFSU時代は語学学校に通っているときにバイトをして貯めたお金と親からの援助で賄い、CMU時代は授業料の75%をカバーしてくれる奨学金を得ることができ、あとは返済ローンを組んで3年間を乗り切りました。家族の応援ということで言うと、実は母親が昔、自身が留学をしたかったけどできなかったという過去があったため、私を快く送り出してくれました。なので、留学をするのに何かがとても障害になったという記憶はあまりありませんね。留学前というか、SFSU卒業後、CMUに入るまでのほうが大変でしたかね。SFSU卒業後、大学院受験留年の約1年間。大学院に入るには自分のポートフォリオ(業務実績)を作る必要があり、パートタイムでサンフランシスコの地元の劇場でセット製作を手伝ったり、デザイナーのアシスタントをしたり、いわゆる下積みをいうのをまずここでやりました。

 

大学(大学院)で学んで良かったこと、留学時にやって良かったこと

今すごく役立っているなと思うのは、時間の使い方です。CMUではかなり無謀なスケジュールをこなしていました。朝9-5時まで授業があり、その後6-10時に学校の劇の舞台装置の製作を手伝う。それから宿題が待っています。絶対無理じゃん、寝る時間ないじゃん、みたいな(笑)毎日寝不足でしたけど、やるしかなかった。なので、どこを集中してどこを削るかを覚えましたね、時間の使い方が上手くなりました。あとは、メンタルがとても強くなりました。教授が全然褒めてくれなくて、毎日クリティシズムの嵐だったので(笑)すごく辛い3年間でしたが、ちょっとではへこたれず、いい意味で図太くなりましたし、おかげで人間的に強くなりました。CMUの演劇スクールはとても厳しかったので、毎年つけられる評価で上に上がれない学生もいましたし、辛くて逃げ出してしまった子もいました。こんな状況だったので、在学中はとにかく辛くて、自信のかけらもありませんでしたね。ここを卒業したから、あれを乗り切ったから何でもできるというような自信は、思えば卒業後についたもの。今は、あの時のおかげで今の自分があるし、それが今の自分につながってると言えます。

 

留学中・留学後にガッカリした内容(卒業後の就職、授業内容など)

SFSUはとても楽しかったのですが、CMUは校風、プログラム、街、全てが合わなかったですね。サンフランシスコからピッツバーグに移り住んだので仕方ない気もしますが(笑)ただ、CMUは大学院生のための学校というのではなく、どちらかというと学部生に重きが置かれていたような気がします。授業も大学院生と学部生が一緒に受けるものが多かった。また、SFSUでJohn Wilson教授の指導を既に受けていたので、CMUで何か目新しいものがあったわけでもなかったんです。あとは、CMUは全米トップの演劇スクールなので、周りは演劇オタクばかりでした。そのノリについていけなかった(笑)自分はそれほどの演劇オタクでもない、と大学院1年目にして気が付きましたね。なので、学校は正直好きではなかったです。

学校にはハリウッドで活躍している方も来ていたため、卒業後はハリウッドという選択肢もあるんじゃないかと思うようになりました。でも、そこはトップの演劇スクール。卒業したらハリウッド行こうと思ってると言うと、教授の風当たりが強くなった。CMUの卒業生でハリウッドで働いている人はたくさんいるんですけどねー。でも、やっぱり教授としては、卒業生にはニューヨークのブロードウェイで活躍してほしいという考えがあったのでしょう。New York UniversityやYale Universityを選んでいたなら今頃ブロードウェイをやっていたでしょうね。でもCMUを選んだことに後悔はありません。

留学前に描いていたイメージと現実とのギャップというのはなかったですね。なにせ何も考えてなかったので(笑)色々考えていたらここまでアメリカでやってこれていないと思います。いきなりブロードウェイのセットデザイナーになるなんて本気で思って突っ走ってしまうなんて、いい意味で素直、ある意味バカでしょう(笑)漠然と夢はあるけど、こういう方法でこうやって考えて動いていけば、というような具体的なことまでは想像していなかったです。アメリカ留学に行くぞー、そしてその後は流れに流されてここまできたという感じなので。色々考えちゃうと心配になって動けなくなると思うんです。当時はインターネットも発達してなかったので、留学情報は留学センターのようなところで得るしかなかった。なので留学も未知の世界でした。情報が得られない状況というのが逆にラッキーだったのかも。でも、何事も飛び込んでみないとわからないですよね。もともとの性格もあると思いますが、あまり深く考えていなかったので、留学に対して描いていたイメージと現実とのギャップに苦しむなんていうこともありませんでした。 

 

留学の結果どう変わったか・何が得られたか(卒業後の就職・転職先、年収・待遇の変化等)、結果を得るためにどう動いたか

大学院卒業後は職を得るために、当時はネットもメールもなかったので、とにかく知らない人に電話をかけまくっていました。今はそんなこと到底できないなと思いますが、生活しなければならないというサバイバル精神で人間何でもやれるもんだなと(笑)電話をして人に会って、またその人から他の人を紹介してもらって。そうして、ハリウッドでデザインのアシスタントの仕事を始めました。そこからは経験を重ねていって次のポジションに上がって、という感じです。なので、会社に就職したことは一度もないですね。もちろんフリーランスという不安定な職なので、次は仕事あるのかなーと昔はすごい不安でしたが、最近は有難いことにオファーがくるようになったので助かってます。

アメリカの大学に行ってよかったなと思うのは、日本の大学に行っていたらきっと見られなかった世界を今見ることができている、ということです。ハリウッドで働いている日本人で、日本の美術大学を卒業している人を私は知りません。数人いる日本人は皆アメリカのアート系の学校を出ていますね。よっぽど日本に関連したプロジェクトでない限り、日本人だからといって雇われることはありません。特に、台本がある俳優と違って、私たちのような裏方の仕事は英語でコミュニケーションが取れないと仕事にならないので、それなりの語学力も必要になります。日本の大学に行ったことがないので何とも言えませんが、日本の大学を卒業しての語学力だと難しいのかなぁと。自分で一生懸命英語を勉強している人は別だと思いますが。もし私が日本の大学に行っていたら、日本史を勉強して学芸員になって結婚して家庭を持って、いわゆる普通の幸せを手に入れられていたのかなと思う時はありますよ(笑) 隣の芝生は青く見えるというやつですね。姉には、あなたの仕事は皆やりたくてもできないんだよって言われます。ハリウッドは毎日が楽しい。毎日違うことをするわけだし、様々な作品に携わることができるという楽しみもあります。もちろん作品を作っている間は私生活なんてないですが、作品と作品の間にがっつり休みも取れるし、お金もがっつり稼げる。でも、落ち着いて波のない生活をしようとするとなかなか難しい。だから、これがひとつ後悔なんです、いまだに家庭を持って落ち着いた生活ができていないという(笑)

 

将来(今後)どうしたいか

大学院卒業後の進路として、日本で就職するということは考えたこともなかったです。日本のことが嫌いなわけでもないけれど、当時歴史以外はなぜか興味がなかった(笑)日本社会が合わなかったとか窮屈だったとか、そんなことを感じていた記憶もないのですが、最初に日本を飛び出してUC Davisで過ごした時に、アメリカって住みやすいなと思ったんだと思います。それから10年くらいはすっかり日本のことを忘れて過ごしていました。でも4年前に国内旅行で高野山や京都を訪れた際に、日本の良さに気が付いたと言いますか、日本ってすごくいいなぁと目覚めて(笑)そこから自分の中で日本ブームが巻き起こって、剣道や三味線も習い始めて、国内旅行にもよく行くようになって、どんどん日本愛が深まっていったという感じですね。

今では日本でも仕事ができれば嬉しいなと思っています。Art Directorの仕事も日本とハリウッドではまた作法も違うでしょうし、難しいところではありますが、時代劇を手がけてみたいという思いもあります。ハリウッドも好きですが、このArt Directorの仕事に執着しているわけでもないし、体力的にも一生できる仕事だとは思っていないので。なので、自分のコンテンツをたち上げてプロデューサー業をするということも視野に入れています。現在は有難いことにハリウッドでオファーをもらえている状況ですし、この仕事はお金もいいし、医療保険もいい(笑)これを捨てて日本に拠点を移すというのはなかなか勇気のいることです。でも、私生活のほうもそろそろ落ち着きたいなという思いがあるので、もしそれが決まれば日本に本帰国というのも十分あり得ますよ(笑)

 

編集後記

筆者は、「Japan Film Festival Los Angeles 2018」というロサンゼルスで2018年に開催した映画祭のスタッフメンバーとして、代表を務めたSuzuki氏と1年近く開催に向けて共に奔走し、映画祭を成功させた。その時も感じていたことだが、あっけらかんとして表裏がなく、時に素直すぎる少女のような印象を残す人物である。とてもハリウッドの第一線でバリバリ仕事をしているような人物には見えないが、2014年に「House of Lies」という作品で、美術部門のエミー賞を受賞したすごい人である。インタビューの最後にも、私の話なんて役に立たないじゃないの?自分でも私の人生これでいいのかなと思ってるのに(笑)と自虐気味に話してくれた。Suzuki氏が、私は何も考えていないのがよかった、と言うように、ごちゃごちゃ考えずにとりあえず飛び込んでみる、という思い切りってとても大事なことなのかも。Chikakoさん、私生活のほうも応援してますよ!

インタビュアー:Natsuko Tanaka

 

 

活動理念

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VISION

留学の「めずらしい」を「あたりまえ」に。

 

仕事を辞め、畑違いの分野を勉強しに海外に行くのは、「めずらしい」。

夢を追いかけて海外で挑戦するのは、「めずらしい」。

そもそも周りに海外経験者がいない環境においては、留学自体が「めずらしい」。

 

周りにロールモデルがいない環境では、まだまだ留学は「めずらしい」と思われることがある。だけど、そんな環境でも海外に飛び出した先輩たちは、実はたくさんいる。

 

人生100年時代、あらゆる人が、あらゆるキャリアパスを歩んでいい。

今は「めずらしい」といわれる留学のカタチも、ひとつひとつを「あたりまえ」にしていけば、これからの日本人のキャリアパスはどんどん広がるはず。

海外経験を含む、ダイバーシティのあるキャリアパスが「あたりまえ」になる。そんな未来を目指します。

 

MISSION

日本列島から一歩踏み出すきっかけをとどける。

イメージできることは、実現できる。でも、情報がないと人はイメージできない。

日本のどんな場所にいる、どんな人でも、「自分にもできそう」と留学をイメージすることができれば、実現への大きな一歩となる。

 

「情報がなくて海外への一歩を踏み出せなかった」

「自分を取り巻く環境では、留学なんて無理だと思った」

「そもそも留学の選択肢が浮かばなかった」

「「「でも、本当は海外に行きたかった」」」

 

そんな悔しい思いをする人がひとりでも減るように。そして、自分もできるかもと思ってもらえるように。そのきっかけになるべく、ユニークな留学を経験した先輩たちの生の声をお届けします。