日本にいたら見えなかった世界!ハリウッドで活躍する美術監督

鈴木智香子さん

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基本情報

所属(現):Freelance Hollywood Art Director

最終学位:MFA

性別:女

出身地:愛知県名古屋市

経歴

2000年 San Francisco State University, BA in Theatre Arts 卒業

2004年 Carnegie Mellon University School of Drama, MFA in Scene Design 卒業

その後ハリウッドでフリーランス 現在に至る

2014年 SHOWTIME “House of Lies”でエミー賞授賞

後の経歴は↓をご覧ください!

www.chikakosuzuki.com

 

インタビュー

なぜ留学に至ったのか

高校時代、当初は大学では大好きな日本史を勉強しようかなと思っていました。ただ、大学進学を見据え自分に欠けているのは何だろう、伸ばさなきゃいけないのは何だろうと考えた時、出てきたのが英語でした。それも高校までに習う読み書きのレベルではなく、使える英語を。そうすると、アメリカに行ってしまった方が早いなと。その当時は、将来的にアメリカで働きたいなどという明確な目標があったわけでもなかったと思います。もともと、親の影響で小さな頃から洋画を見たり洋楽を聴いたりして育ったので、アメリカの文化にも興味がありました。なので、アメリカの大学に行くというのは大きな決断をしたという感じもなく、思いのままという感じでしたね。日本史は大好きでしたが、特に当初日本が好きというわけでもなかったですし(笑)

 

学校選択の基準・決め手など

アメリカの大学に行くと決めても、いきなり入学するのは無理だったので、高校卒業後は地元名古屋の英語の専門学校を通して、1年間ほどUniversity of California, Davis(以下、UC Davis)のELSプログラムで英語を学びました。週末にはよく電車を使ってサンフランシスコに遊びに行っていたので、San Francisco State University(以下、SFSU)は身近に感じており、それで進学先として選びました。色々なところに行けるし面白そうだな―という理由で入学時は報道関連の学部を選んだのですが、なにせ報道なので授業がどれもお堅くて(笑)自分はもっと娯楽性の高いものが向いてるなーと思い、途中でTheatre Artsの学部に変わりました。

その後Carnegie Mellon University(以下、CMU)の大学院に進学を決めるわけですが、SFSUのひとりの教授との出会いが私の人生を変えました。SFSUでTheatre Artsに移った最初の学期にその教授、John Wilson先生の授業を取ることになりました。本当は別の授業を取りたかったのですが、その授業がたまたま満席で取ることができず、彼の授業を取ることにしたのです。でもこれが運命というのか、彼が本当に素晴らしくて、それで本気でブロードウェイのセットデザイナーになろうと思ったのです。ブロードウェイのセットデザイナーになるには、まずこの演劇の分野で全米でもトップ3の大学院に行かないといけない。Yale University、CMU、New York Universityの中で、CMUはWilson教授が卒業していたこともあり、CMUを選びました。

 

留学前に大変だったこと、どうやって克服したか(金銭面、家族の説得、推薦状依頼など)

金銭面について、SFSU時代は語学学校に通っているときにバイトをして貯めたお金と親からの援助で賄い、CMU時代は授業料の75%をカバーしてくれる奨学金を得ることができ、あとは返済ローンを組んで3年間を乗り切りました。家族の応援ということで言うと、実は母親が昔、自身が留学をしたかったけどできなかったという過去があったため、私を快く送り出してくれました。なので、留学をするのに何かがとても障害になったという記憶はあまりありませんね。留学前というか、SFSU卒業後、CMUに入るまでのほうが大変でしたかね。SFSU卒業後、大学院受験留年の約1年間。大学院に入るには自分のポートフォリオ(業務実績)を作る必要があり、パートタイムでサンフランシスコの地元の劇場でセット製作を手伝ったり、デザイナーのアシスタントをしたり、いわゆる下積みをいうのをまずここでやりました。

 

大学(大学院)で学んで良かったこと、留学時にやって良かったこと

今すごく役立っているなと思うのは、時間の使い方です。CMUではかなり無謀なスケジュールをこなしていました。朝9-5時まで授業があり、その後6-10時に学校の劇の舞台装置の製作を手伝う。それから宿題が待っています。絶対無理じゃん、寝る時間ないじゃん、みたいな(笑)毎日寝不足でしたけど、やるしかなかった。なので、どこを集中してどこを削るかを覚えましたね、時間の使い方が上手くなりました。あとは、メンタルがとても強くなりました。教授が全然褒めてくれなくて、毎日クリティシズムの嵐だったので(笑)すごく辛い3年間でしたが、ちょっとではへこたれず、いい意味で図太くなりましたし、おかげで人間的に強くなりました。CMUの演劇スクールはとても厳しかったので、毎年つけられる評価で上に上がれない学生もいましたし、辛くて逃げ出してしまった子もいました。こんな状況だったので、在学中はとにかく辛くて、自信のかけらもありませんでしたね。ここを卒業したから、あれを乗り切ったから何でもできるというような自信は、思えば卒業後についたもの。今は、あの時のおかげで今の自分があるし、それが今の自分につながってると言えます。

 

留学中・留学後にガッカリした内容(卒業後の就職、授業内容など)

SFSUはとても楽しかったのですが、CMUは校風、プログラム、街、全てが合わなかったですね。サンフランシスコからピッツバーグに移り住んだので仕方ない気もしますが(笑)ただ、CMUは大学院生のための学校というのではなく、どちらかというと学部生に重きが置かれていたような気がします。授業も大学院生と学部生が一緒に受けるものが多かった。また、SFSUでJohn Wilson教授の指導を既に受けていたので、CMUで何か目新しいものがあったわけでもなかったんです。あとは、CMUは全米トップの演劇スクールなので、周りは演劇オタクばかりでした。そのノリについていけなかった(笑)自分はそれほどの演劇オタクでもない、と大学院1年目にして気が付きましたね。なので、学校は正直好きではなかったです。

学校にはハリウッドで活躍している方も来ていたため、卒業後はハリウッドという選択肢もあるんじゃないかと思うようになりました。でも、そこはトップの演劇スクール。卒業したらハリウッド行こうと思ってると言うと、教授の風当たりが強くなった。CMUの卒業生でハリウッドで働いている人はたくさんいるんですけどねー。でも、やっぱり教授としては、卒業生にはニューヨークのブロードウェイで活躍してほしいという考えがあったのでしょう。New York UniversityやYale Universityを選んでいたなら今頃ブロードウェイをやっていたでしょうね。でもCMUを選んだことに後悔はありません。

留学前に描いていたイメージと現実とのギャップというのはなかったですね。なにせ何も考えてなかったので(笑)色々考えていたらここまでアメリカでやってこれていないと思います。いきなりブロードウェイのセットデザイナーになるなんて本気で思って突っ走ってしまうなんて、いい意味で素直、ある意味バカでしょう(笑)漠然と夢はあるけど、こういう方法でこうやって考えて動いていけば、というような具体的なことまでは想像していなかったです。アメリカ留学に行くぞー、そしてその後は流れに流されてここまできたという感じなので。色々考えちゃうと心配になって動けなくなると思うんです。当時はインターネットも発達してなかったので、留学情報は留学センターのようなところで得るしかなかった。なので留学も未知の世界でした。情報が得られない状況というのが逆にラッキーだったのかも。でも、何事も飛び込んでみないとわからないですよね。もともとの性格もあると思いますが、あまり深く考えていなかったので、留学に対して描いていたイメージと現実とのギャップに苦しむなんていうこともありませんでした。 

 

留学の結果どう変わったか・何が得られたか(卒業後の就職・転職先、年収・待遇の変化等)、結果を得るためにどう動いたか

大学院卒業後は職を得るために、当時はネットもメールもなかったので、とにかく知らない人に電話をかけまくっていました。今はそんなこと到底できないなと思いますが、生活しなければならないというサバイバル精神で人間何でもやれるもんだなと(笑)電話をして人に会って、またその人から他の人を紹介してもらって。そうして、ハリウッドでデザインのアシスタントの仕事を始めました。そこからは経験を重ねていって次のポジションに上がって、という感じです。なので、会社に就職したことは一度もないですね。もちろんフリーランスという不安定な職なので、次は仕事あるのかなーと昔はすごい不安でしたが、最近は有難いことにオファーがくるようになったので助かってます。

アメリカの大学に行ってよかったなと思うのは、日本の大学に行っていたらきっと見られなかった世界を今見ることができている、ということです。ハリウッドで働いている日本人で、日本の美術大学を卒業している人を私は知りません。数人いる日本人は皆アメリカのアート系の学校を出ていますね。よっぽど日本に関連したプロジェクトでない限り、日本人だからといって雇われることはありません。特に、台本がある俳優と違って、私たちのような裏方の仕事は英語でコミュニケーションが取れないと仕事にならないので、それなりの語学力も必要になります。日本の大学に行ったことがないので何とも言えませんが、日本の大学を卒業しての語学力だと難しいのかなぁと。自分で一生懸命英語を勉強している人は別だと思いますが。もし私が日本の大学に行っていたら、日本史を勉強して学芸員になって結婚して家庭を持って、いわゆる普通の幸せを手に入れられていたのかなと思う時はありますよ(笑) 隣の芝生は青く見えるというやつですね。姉には、あなたの仕事は皆やりたくてもできないんだよって言われます。ハリウッドは毎日が楽しい。毎日違うことをするわけだし、様々な作品に携わることができるという楽しみもあります。もちろん作品を作っている間は私生活なんてないですが、作品と作品の間にがっつり休みも取れるし、お金もがっつり稼げる。でも、落ち着いて波のない生活をしようとするとなかなか難しい。だから、これがひとつ後悔なんです、いまだに家庭を持って落ち着いた生活ができていないという(笑)

 

将来(今後)どうしたいか

大学院卒業後の進路として、日本で就職するということは考えたこともなかったです。日本のことが嫌いなわけでもないけれど、当時歴史以外はなぜか興味がなかった(笑)日本社会が合わなかったとか窮屈だったとか、そんなことを感じていた記憶もないのですが、最初に日本を飛び出してUC Davisで過ごした時に、アメリカって住みやすいなと思ったんだと思います。それから10年くらいはすっかり日本のことを忘れて過ごしていました。でも4年前に国内旅行で高野山や京都を訪れた際に、日本の良さに気が付いたと言いますか、日本ってすごくいいなぁと目覚めて(笑)そこから自分の中で日本ブームが巻き起こって、剣道や三味線も習い始めて、国内旅行にもよく行くようになって、どんどん日本愛が深まっていったという感じですね。

今では日本でも仕事ができれば嬉しいなと思っています。Art Directorの仕事も日本とハリウッドではまた作法も違うでしょうし、難しいところではありますが、時代劇を手がけてみたいという思いもあります。ハリウッドも好きですが、このArt Directorの仕事に執着しているわけでもないし、体力的にも一生できる仕事だとは思っていないので。なので、自分のコンテンツをたち上げてプロデューサー業をするということも視野に入れています。現在は有難いことにハリウッドでオファーをもらえている状況ですし、この仕事はお金もいいし、医療保険もいい(笑)これを捨てて日本に拠点を移すというのはなかなか勇気のいることです。でも、私生活のほうもそろそろ落ち着きたいなという思いがあるので、もしそれが決まれば日本に本帰国というのも十分あり得ますよ(笑)

 

編集後記

筆者は、「Japan Film Festival Los Angeles 2018」というロサンゼルスで2018年に開催した映画祭のスタッフメンバーとして、代表を務めたSuzuki氏と1年近く開催に向けて共に奔走し、映画祭を成功させた。その時も感じていたことだが、あっけらかんとして表裏がなく、時に素直すぎる少女のような印象を残す人物である。とてもハリウッドの第一線でバリバリ仕事をしているような人物には見えないが、2014年に「House of Lies」という作品で、美術部門のエミー賞を受賞したすごい人である。インタビューの最後にも、私の話なんて役に立たないじゃないの?自分でも私の人生これでいいのかなと思ってるのに(笑)と自虐気味に話してくれた。Suzuki氏が、私は何も考えていないのがよかった、と言うように、ごちゃごちゃ考えずにとりあえず飛び込んでみる、という思い切りってとても大事なことなのかも。Chikakoさん、私生活のほうも応援してますよ!

インタビュアー:Natsuko Tanaka

 

 

活動理念

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VISION

留学の「めずらしい」を「あたりまえ」に。

 

仕事を辞め、畑違いの分野を勉強しに海外に行くのは、「めずらしい」。

夢を追いかけて海外で挑戦するのは、「めずらしい」。

そもそも周りに海外経験者がいない環境においては、留学自体が「めずらしい」。

 

周りにロールモデルがいない環境では、まだまだ留学は「めずらしい」と思われることがある。だけど、そんな環境でも海外に飛び出した先輩たちは、実はたくさんいる。

 

人生100年時代、あらゆる人が、あらゆるキャリアパスを歩んでいい。

今は「めずらしい」といわれる留学のカタチも、ひとつひとつを「あたりまえ」にしていけば、これからの日本人のキャリアパスはどんどん広がるはず。

海外経験を含む、ダイバーシティのあるキャリアパスが「あたりまえ」になる。そんな未来を目指します。

 

MISSION

日本列島から一歩踏み出すきっかけをとどける。

イメージできることは、実現できる。でも、情報がないと人はイメージできない。

日本のどんな場所にいる、どんな人でも、「自分にもできそう」と留学をイメージすることができれば、実現への大きな一歩となる。

 

「情報がなくて海外への一歩を踏み出せなかった」

「自分を取り巻く環境では、留学なんて無理だと思った」

「そもそも留学の選択肢が浮かばなかった」

「「「でも、本当は海外に行きたかった」」」

 

そんな悔しい思いをする人がひとりでも減るように。そして、自分もできるかもと思ってもらえるように。そのきっかけになるべく、ユニークな留学を経験した先輩たちの生の声をお届けします。